北欧、フィンランドをこよなく愛するカフェ店主がつづる日々のあれやこれや。

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Happy April Fool's Day!!!!!!!!!!!!!!!!!!!



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 日々、お店のカウンターに立ってするとはなしに「定点観測」していると、じつにさまざまな光景と出くわします。お店の店先に3日間カメラが張り付いて、そこを訪ねてきたお客さんにインタビューする「ドキュメント72時間」というテレビ番組がありますが、まさにちょうどあんな感じです。

 これは、中年女性の3人組によくある行動パターンなのですが、なにやらにぎやかにおしゃべりをしながらお店に入ってきます。商品のポストカードを眺めたり、雑貨を手にとったりするかと思いきや、売り場の真ん中に立って相変わらずおしゃべりに夢中です。話のキリのいいところで商品を見るのだろうと思って眺めていると、いっこうに話の「キリ」はやってきません。それどころか話はいっそう盛り上がり、もはや商品に背中さえ向けています。5分ほど経つと、なかのひとりが出口にむかって歩きだし、残りの2人もそれにあわせて移動します。出ていってしまいました……


あれは一体なんだったのか?


こちらはしばらく悩むことになります。「店があったらとりあえず入る」きっと、そうDNAに刻み込まれているにちがいありません。

 お店の片隅に、ダイソンのファンヒーターがあります。平ったく言えば、「羽根のない扇風機」といったところでしょうか。このダイソンの前を通るとき、多くのお客様が、通りすがりに手をかざして本当に風が出ているか確認していきます。世の中には、疑り深いひとが多いようです。けれども、とても申し訳ないことには、ふだんはコンセントからプラグを抜いていることが多いのでその疑念を拭い去って差し上げることができません。3回に1回は電源がオンになっていますので、ぜひまたお茶しにきて下さい。
 ところで、これはいまさっきの話ですが、なんと推定3歳児といったルックスの男の子が通りがかりにダイソンの前で立ち止まり、手をかざしていきました。おそらく自宅にあるのしょうが、いまどきの3歳児はあの「輪っか」を見て即時に「扇風機」と理解できるのですね。ちょっとした「発見」でした。
 いまとなってはむしろ、あの独特の輪っかというかフレームを見ると反射的に「ダイソン」と認識する、そういうひとがぼく自身もふくめ多そうです。「刷り込み」というヤツでしょうか。そうなってくると、ついついこんなことを考えてしまいます。
 まず、ダイソンそっくりのオブジェを作ります。たぶん、ひとはそれを見て思わず手をかざしてしまうことでしょう。が、風は出ません。そのかわりに、突然、上から水が出てきます。これは相当のひとが引っかかるのではないでしょうか。ウオッ!とか、ひえーっ!とか、さまざまな叫び声が店内にこだましそうです。想像しただけでワクワクします。ちょっとした店主のひまつぶしにはなりそうですが、水びたしになった床をいちいちモップがけする手間を思うとかなり面倒くさく、残念ながら実現への道のりは遠そうです。そんなわけなので、ひとまずは想像の世界にとどめ、ふたたび「定点観測」に戻りたいと思います。
ジャングルをさまようかのような目線の低さが楽しい。

荻窪にあった自邸の庭を描いた、鈴木信太郎による昭和13(1938)年の作品『青い庭(芭蕉と百合)』。幼いころの病によって足が不自由だった鈴木は、地べたに座ってスケッチすることもしばしばだったという。ことし(2015年)そごう美術館でひらかれた『生誕120年・鈴木信太郎展 親密家のまなざし』の図録にも、アトリエの床に座布団を一枚敷き、その上に横っ座りのようなずいぶんと不自然な体勢で絵筆をふるう画家の写真が掲載されている。

しばしば「童心の画家」と呼ばれることもある鈴木信太郎だが、素朴で無垢な画風はもちろん、その「目線の低さ」ゆえ観る者の心を自然と子供の頃へと連れ出してしまう、そんなこともまたあるのかもしれない。

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 よく、好きなアニメやマンガに登場する舞台を実際にたずねあるくことを「聖地巡礼」と言ったりするが、いつ、だれが最初に言い出したかはともかく、なかなかうまいこと言ったもんだなァと感心する。ただ「好き」という以上の、他人の目にはちょっと奇異に映るくらいの情熱がなければなかなか足を使って現地までは出向かないものだし、その意味で、ちゃんとそこには宗教的なニュアンスも含まれているのである。
 じっさい、アニメやマンガにかぎらず、そうした「聖地巡礼」は古くから世界じゅうで行われている。たとえば、ビートルズの熱狂的なファンがアビー・ロード・スタジオをたずね例の横断歩道で記念写真を撮るのもそうだし、熱狂的なワーグナー信者=ワグネリアンたちは、バイロイト祝祭劇場を訪ねることをしばしば「バイロイト詣で」と呼んできた。

 ところで、洲之内徹の『気まぐれ美術館』(新潮社)のなかにも「聖地巡礼」の話が登場する。
 松本竣介が描いた風景を、ひとつひとつたずねあるいているひとの話だ。丹治日良(あきら)という画家がそのひとで、タイトルやさまざまな資料をもとに現地に赴いてみるのはもちろん、ときには自身の記憶や勘をたよりにその「現場」を特定したりもする。その結果、これまでAとされてきた場所がじつはそうではなく、まったくべつのBという場所であったという事実を突き止めたりもするので、あるいは、たんなる「聖地巡礼」とは呼べないかもしれない。
 洲之内徹は、その丹治に誘われるままま竣介が描いた風景をたずねて東京、横浜を歩きまわり、いくつかの興味深い「発見」をしてゆく経緯をいくつかのエッセイに書き残している(「松本竣介の風景」(一)〜(四))。

 昭和16(1941)年ごろ、竣介が神田駿河台の「ニコライ堂」を描いた油彩がある。
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 かつて東京美術学校の建築科にいた洲之内は、まず、この絵のなかで前景に並んだ「鉄柱の列」に目をつける。この「ニコライ堂」がいったいどのアングルから描かれたものなのか気になった洲之内は、さっそく御茶ノ水まで出向いてニコライ堂の附近を歩き回るのだがいっこうにみつけられない。ところが後日、松本竣介の画集を眺めていた彼は、そこにあの「見憶えのある鉄骨のコンビネーション」を発見する。「新宿のガード」を描いたスケッチであった。つまり、洲之内がみた竣介の「ニコライ堂」は、ごくふつうの風景画のようにみえて、そのじつ「新宿のガード」と「神田駿河台のニコライ堂」とを画面のそれぞれ下半分と上半分で合成したモンタージュだったというわけである。
 いっぽう丹治も、タブローだけにかぎらず、竣介が残したスケッチの場所をたずねあるき、またその景色を丹念に眺めることでつぎつぎと新しい発見を重ねてゆく。たとえば、それまで下落合附近とされてきた『鉄橋近く』(1943)の景色がじつは五反田であること、また、竣介の作品のなかでもとりわけよく知られたもののひとつ、『立てる像』(1942)では高田馬場近くの景色が背景として、しかも反転させて描かれていることなどが明かされている。『都会』(1940)や『街』(1938)にみられるように竣介がモンタージュの技法を好んでとりいれていたことは知っていたが、ごくふつうの風景画にみえる作品にまでモンタージュや〝改変〟が巧みになされているとは気づかなかったし、こういう発見は「聖地巡礼」なくしてはけっしてありえなかったのではないか。

とはいえ、

一枚の風景画の現場がどこかというようなことは、その作品の、作品としての価値にはたいして関係はない。(「松本竣介の風景(一)」『気まぐれ美術館』(新潮社)204頁)



と洲之内徹も書いているように、こうした発見がたとえば松本竣介の思想を映しているかといえばべつだんそういうわけではないだろう。むしろ、この一連の「聖地巡礼」をめぐるエッセイをとおして洲之内が言っているのは、こうした「発見」をなしえた丹治日良の眼、見ることをめぐる画家ならではの眼の動きについてである。

物を見るということが、画家と、そうでない人間とではちがう。画家は一瞬のうちに風景の全部を見るのではない。手が画面を動いて行く順序に従って、部分から部分へと見て行く。いわば、手で物を見る。そして、そういう動きかたに慣れた眼が、記憶の中にある竣介の絵のある部分を現実の風景の中で発見し、部分の発見が全体の発見へと拡げられて行く。そういう経過をたどるらしい。(「松本竣介の風景(一)」『気まぐれ美術館』(新潮社)208頁)



そして洲之内が、「ニコライ堂」の油彩のなかで「鉄骨のコンビネーション」が強く印象に残っていたのも自身が美校の建築科で設計を学んだという出自ゆえであろうと言う。どうもやはり、これは単純な「聖地巡礼」ではないようだ。
 いっぽう、そんなことをかんがえながらこのエッセイを読んでいる凡庸なぼくは、風景を描く際に建物の位置をずらしたり、ときに足したり引いたりする画家の意識といったものが気にかかる。さっそく身近なところで、敬愛する大平高之さんにそのあたりのことを尋ねてみた。「風景をそのまま描いて、なおかつそれでちゃんと絵になっているというのは相当大変なことなんですよ」。対象は、そうした〝改変〟もふくめてほかならぬ自分だけの作品として生み出される、ということなのだろう。「竣介の画面のこの緊張力、この魅惑は、彼の作品が、そのモチーフとなった対象をむしろ圧倒し、凌駕し、対象自体には望むべくもない純度の結晶体となっているからだ」と書く洲之内にならえば、画家の眼をとおして景色が結晶化され作品として昇華されてゆく過程では、建物の位置をずらしたり、ときに足したり引いたりといった〝改変〟はごく自然に、また必然的に行われるいわば当然の手続きということだ。

 そうは言いながら、やはり凡庸な人間ほど芸術にドラマを見たがるというのもまた事実。

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 昭和17(1942)年9月の第29回二科展に出品された『立てる像』は、松本竣介の自画像としてよく知られているが、過去にすくなくとも3度ほどこの実物をみているにもかかわらず、ぼくはずっとこの絵を焼け跡に立つ画家の姿を描いたものと勘違いしつづけていた。この『立てる像』の背景部分には高田馬場の目白変電所やごみ捨て場附近が描かれているが、画面中央で仁王立ちする人物に対して建物は広角レンズで覗いたかのように遠景に引いて描かれている。無機質なコンクリートの変電所や煙突や葉の落ちた木が並ぶ様子から、どうやら勝手に焼け跡のイメージを重ねてしまっていたようだ。
 とはいえ、この作品が発表されたのとおなじ昭和17(1942)年4月18日、東京は初めての空襲に見舞われ、背景に描かれた高田馬場界隈からもほど近い早稲田鶴巻町や馬場下町にも被害をもたらしている。さらにその3年後には東京じゅうが焦土と化すのだから、画家の意志とは関係なく、その作品が現実の世界とリンクしてしまった不思議を思わずにはいられないのである。
中世主義というキーワードから、大正時代の建築を読み解いた刺激的な論考。というのでは、この長谷川尭による『都市廻廊あるいは建築の中世主義』という本をまったく説明できていない。建築史というのは表向きの顔、じっさいには明治と昭和のはざまに花ひらいた大正という時代を、ある一面から徹底的に抉ったギラギラとした思想書なのである。そしてまずはともかく、この詩的な目次を見よ! 

長谷川 尭『都市廻廊あるいは建築の中世主義』

目次

第一章

「所謂今度の事」をめぐって
叛 逆 者
大正元年のCOCA COLA
三田の丘の上
小さいものから
高松政雄のラスキン
新しい心斎橋と日本橋
りうりうと仕上がったのでお芽出度い
河のなかの「江戸の唄」
妻木頼黄という建築家
「陸の東京」への咆哮
水上のシャンゼリゼ
荷風の中世主義
日和下駄に蝙蝠傘
裏町と横道を行こう
軽蔑なしに羨ましい
細長い〈囲い地〉
コバルトの空の下の虞美人草
水上都市の構想
「メイゾン鴻の巣」
芝の上に居る
復元街区
小屋談義
「物いひ」
四十二年組
山崎静太郎の構造の主体性の主張
反 論
レアリテとヴェリテ

第二章

〈囲い地〉について
囲壁の内側
都市改造の根本義
バ ラ ッ ク
相 互 扶 助
復興都市の建築美
賀川豊彦の学会での講演
ギルドとサンジカ
〈都市〉としての」ハワードの発明
『ガーデン・シチーに就て』
樹木をよける道
コテージ
内部のふくらみ
日本のカントリーハウス
ヴォーリズと近江八幡
モリスと云ふ先生
ある提案

第三章

『様式の上にあれ』
考え方の変化
未来への遁走
現  在
神の臨在
量塊・表面・平面
陰  影
北への視界
ストックホルムの石
バルセロナで
雪の中に立つ
部分から全体へ
手と機械
私のロマネスク

あとがき

道はおのずから速度を増すかのように急な坂になっていって宮永町へくだり、そこからまっすぐに本郷の通りへむかって向ヶ丘の坂をのぼってゆく。(中略)道がもっている大地のがんこな意思と、とどまることを知らぬそのやさしい抒情的な運動は、こんなふうに坂をくだっていって、さらにまた坂をのぼっていくところに、実にリズミカルに現れている。道は都会のどまんなかで、都会の不安も焦燥も容赦しないのである。(窪川鶴次郎『東京の散歩道』現代教養文庫・昭和39)



道を歩いていて、「坂道」なんてただ鬱陶しいだけだったけれど、こんな文章を読み知っているとちょっとだけ愉しくもなるだろうか。そして、「道」は「人生」におきかえて読むこともできるかもしれない。

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