北欧、フィンランドをこよなく愛するカフェ店主がつづる日々のあれやこれや。

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激暑/渋谷/レイトショーという「三重苦」を克服して(?)、ユーロスペースで「映画」を観てきた。『四季 ユートピアノ』。なかなかの見応えだった。特集「佐々木昭一郎というジャンル」の一部としていま上映中の、日本の映像作品である。

ところでこの作品、上で「映画」と書いたけれどじつは「映画」じゃない。いまから30年前、1980年にNHKで放映された「テレビドラマ」である。とはいえ、それはテレビドラマの枠で放映されたというだけで、いわゆる「テレビドラマ」とはずいぶんと肌合いのちがうものだ。むしろ、いちばんしっくりとくるのは「映像による詩」といった表現かもしれない。

青森の寒村で育った少女「榮子(A子)」が家族との「別れ」を経て、故郷をはなれ「調律師」として独立するまでの日々を、彼女の回想によって淡々と綴った叙事詩のようなつくりになっている。とはいっても、そのストーリーはあってないがごとき、無数のエピソードがパッチワークのようにつぎはぎされているような印象をあたえる(そうした印象が、あるいは「詩的」ということばを思い出させるのかもしれないが)。

と同時に、「音」を映像化する試みという意味において、それはまた「実験的」ともいえるだろう。じっさい、この主人公にとって、すべての存在は「音」として認識されている。たとえば母は「ミシンの音」だし、父は「靴音」、主人公の「えいこ」も「榮子」であると同時に、調律につかう「音叉」の基音(また、生まれてはじめて耳にしたピアノの音である)「A子」としてしばしば登場する。そうして、ある存在がじぶんの前から姿を消すということは、すなわちこの世界から「音」がなくなるということを意味している。

まるで歯が抜け落ちるようにポロポロと、自分の身の回りから「音」が消えてなくなってゆく高校生の榮子は、ある日砂浜で「音叉」を拾う(砂浜に「音叉」なんて落ちてるわけないじゃん、というツッコミはこの際ナシね)。そしてそれをきっかけに、榮子は音楽の仕事をめざし故郷を後にするのだ。はじめはちいさなピアノの工房、そして調律師の弟子に。いってみれば「調律師」とは、無音から音をつかみだし、混沌とした世界に調和をもたらす仕事でもある。榮子もまたさまざまな出会い、そして別れを通して、自分の手でふたたび自分の世界を「音」で満たし調律してゆくのだ。

ところで、この作品で主役を演じたのは中尾幸世という女優。演じるというよりは、この作品の中にまるで「棲んでいる」かのような不思議な、だが強い印象をあたえる役者さんである。ほかの登場人物たちもまた、存在と不在のあわいを生きているかのような、どこか儚げな印象である。つまり、みんないますぐにでも消えてなくなってしまいそうな、そんな危うさをもっているのだ。

それにしてもこんな、見終わったあとひとことで「いい」とか「わるい」とかけっして口にすることのできないような作品が、30年前に平然と公共放送の電波にのって日本全国のお茶の間に流れたという事実がすでにすごいことなのではないか? そこにある「つくり手」と「視聴者」との関係はひどく「挑発的」である。よい番組とは、両者がひとつの「答え」を共有することにあるという「前提」は、ここでははなっから放棄されてしまっている。しかし、この作品は30年後「伝説」になった。映画館は、老若男女で毎回立ち見が出るほどの大盛況である。じっさいツイッターでも、この作品を観てきたというぼくの「つぶやき」に複数の反応が寄せられた。なかには昔、テレビで観てずっと印象に残っていたといった声もあった。そして思ったのは、公共放送は、なにも現在の視聴者がただその瞬間「おもしろい」と感じるような映像をひたすら量産するためだけにあるのではないんじゃないか、ということ。その国にとって、長い目でみて「財産」となるような映像作品を残すことも重要な仕事にちがいない。

30年後「伝説」になるはずの作品をつくるのだから、その制作費をよこしやがれ!

民放のマネをしてひんしゅくを買うくらいなら、そんな「NHK右派」的な気概をもって視聴者を恫喝(笑)するくらいのことがあったとしても、あるいはいいのかもしれない。いろいろな意味で、かんがえさせられる作品である。

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とある休日、たまたま通りがかった映画館でちょうどロバート・アルトマン監督の『バード★シット』を上映していたのだった。その日はとりたててこれといった予定もなかったので、思わずふらりと劇場に入ってしまった。

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とはいえ、ぼくは「ロバート・アルトマン」という名前こそ知ってはいたが、彼の作品は観たことがない。あの有名な『M★A★S★H マッシュ』でさえも。帰ってから調べたところでは、「『M★A★S★H マッシュ』で脚光を浴び始めたばかりのロバート・アルトマン監督による、カルト的人気を誇るブラック・コメディー」とある。1970年の作品。だが、もちろんそのときぼくは、この映画についてまったくなんの予備知識も持たないまま席に着いたのだった。

そしてこの『バード★シット』、おもしろかった! そこにあるのは、笑いと切なさと。ひとことで言えば、「傑作」である。十数年前、その当時六本木にあった「シネヴィヴァン」で初めて『真夏の夜のジャズ』を観たときもそうだったが、見終わったそのすぐ後に、もう一回くりかえし観たいと思った。そんな経験、そうめったにあるものじゃない。

空を飛ぶ人間は、それと引きかえにいったいなにを失うか?

この映画の舞台は、テキサス州のヒューストン。いわずと知れたNASAのお膝元である。しかもこの作品が撮られた1970年といえば、「アポロ計画」でアメリカじゅうが熱狂していたころ。そんな時代に、「空を飛ぶこと」を夢見る少年を主人公に、ブラックユーモアをたっぷりまぶしたこんな映画を撮ってしまうあたりロバート・アルトマンという人の「反骨精神」を感じずにはいられない。ヤクザな警察官やベタベタな敏腕探偵が登場したかと思えば、人類初のパイロット、アブラハム・ライト(120歳)が人格の崩壊した守銭奴として登場したり。しかも、最初に殺される人物は「イベントで国歌を披露するのが趣味」の大金持ちの老女である。権力者や富裕層、偽善者、墜ちた英雄、差別主義者、マッカーシズム…… これらアメリカの「影」の部分がこの作品のなかでは次々と光の下に曝され、無惨な最期を遂げるのだ。笑いと、そして鳥の糞(バード・シット)にまみれて。

一部、アメリカン・ニュー・シネマの世界ではこの作品を「カルトムーヴィー」と評するむきもあるようだが、ぼくはそうは思わない。「イカロスの神話」を持ち出すまでもなく、これはひとつの「寓話」である。

カメラワークの秀逸さ、さまざまな仕掛けの大胆さ、音楽の扱い方の巧みさもこの作品の重要なポイント。ひさびさに「熱く」なれる映画と出会った。



追伸 キノイグルー 有坂さま

以前記帳させていただきました「好きな映画リスト」ですが、新たにぜひとも加えたい作品ができましたので、次回機会がありますときに追加で記帳させていただけますようお願いいたします(笑)。
本日、メールマガジン「moi通信」vol.15配信しました。


さて、、、


フレッド・アステアがジュディ・ガーランドと共演した『イースター・パレード』という「SF映画」を観た。SFというのはもちろん冗談で、じっさいのところは「ミュージカル映画」である。

とはいえ、ハリウッド製ミュージカルに描かれる世界はいま自分が生きているこの世界とはあんまりにも違いすぎて、その距離感からしたら宇宙の彼方を描いたSFを観る感覚とぜんぜん変わらない。だから、ぼくにとって「ミュージカル映画」は「SF映画」みたいなものなのである。

UFOにのって地球に来襲する宇宙人とおなじくらい、歌い踊りながら会話する恋人たちは稀有な存在といえる。そう思えば、ミュージカル映画はSF映画とおなじくらい周到にフィクションの世界を描き抜いてくれないと困るのだ。失敗したミュージカル映画の多くはそこで、つまり「フィクションであること」へのこだわりの中途半端さにおいてつまづいていると思う。たとえば、ぼくは日本人が外人風にほどこしたメイクで演じるミュージカルが苦手なのだが、理由はひとえに「それじゃ酔えないから」、それに尽きる。偏屈ですいません。

けっきょく、ぼくにとってミュージカル映画といえばこの『イースター・パレード』をふくめ、ある時代にハリウッドで製作されたものだけに限られるみたいだ(唯一の例外は『シェルブールの雨傘』だろうか。あれは、まちがいなく「SF」だから)。ウソみたいな筋書き、ウソみたいに粒ぞろいな役者たち、ウソみたいに甘美な音楽、ウソのように大がかりなセット、そしてウソみたいな妙技・・・と、すべてが完璧に「ウソ」でコーティングされている。いまひとつ宮崎アニメの世界に没入できないぼくでも、ハリウッドのミュージカル映画だけはいつも、本当にしあわせな気分でその世界に浸れるということをあらためて発見した。

ミュージカルにかぎらず、ある時期のハリウッド映画は「人類にとっての宝」と言ってもいいくらいすばらしい(とぼくは思う)。クリスマスに観るなら、『三十四丁目の奇跡』『アパートの鍵貸します』、あるいは『素晴らしき哉、人生!』あたり。クリスマスの情景が、いつまでも心に残る名作ばかりである。

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三作目にして、すでに《禁断の作品》に到達してしまった。

四〇歳からの宮崎アニメ。今回は『耳をすませば』、である。またしてもスタッフが貸してくれたわけだが、原作が少女マンガというところからしてすでにハードルが高い感じだ。

観て、まず思ったことは

個人情報の取り扱いについて

である。主人公である読書家の少女は、じぶんが図書館で借りてきた本がいつもおなじ人物によって先に借りられていることに気づき、その「天沢聖司」という人物に興味をもち少女特有の妄想(=「サラダ記念日」的な)を爆発させるのだが、こうした妄想を抱けるのはもちろん、本の「貸し出しカード」というものがあってこそである。

現代は、なにかと「個人情報」の取り扱いについてはうるさい時代である。個人名ばかりか、その人物がいつなんの本を借りたかわかってしまう「貸し出しカード」などという代物はけっして許されるはずもなく、よって少女は少女らしい妄想にひたる余地もあたえられないままオトナになり「婚活」に専心することになる。宮崎監督に、「個人情報」についての考えをぜひ訊いてみたいところだ。

そこで、いまのような無味乾燥なカードなんかではなく最低限のプライバシーは保護しつつも、なにがしかの「情緒」が芽生えるようなアイデアはないものかと、この映画を観ながらぼくはかんがえた。

たとえば、ネットの掲示板などでよくみかけるHN、つまりハンドルネームなんかにしたらよいのではないか? 村上春樹の『ノルウェーの森』の「貸し出しカード」を見ると、鉄平ちゃん、ゆっこ、HANA、コータ1977といったハンドルネームがずらりと並んでいるといったぐあい。これなら個人を特定することはできないので借りるほうとしても安心だし、少女の妄想の受け皿としてもちゃんと機能する。

図書館で借りてきた本の「貸し出しカード」をなにげなく見た少女は、いつもおなじ人物によっておなじ本が先に借りられていることに気づくのだ。その人物の名(HN)は、


肉球。


ダメだダメだ。ありえない。そんな人物のことこれっぽっちも知りたくない。よって、この案はボツ。

話は少々脱線するが、よく本屋さんにゆくひとならば二ヶ月に一度くらいは素敵な異性とおなじ一冊の本に同時に手をのばしてしまい互いに「ハッ」とする・・・そんな出会いを体験しているにちがいない。要するに、行き過ぎた個人情報の保護やア●ゾンで本を買ったりするなかに「出会い」はない、ということである。

「婚活」が流行語になり、それを逆手にとったかのような悪質な結婚詐欺事件が取り沙汰される昨今、この『耳をすませば』はたいせつなことに気づかせてくれる作品である。

PS.道で知り合いをみつけたら、無邪気に「ヤッホー」と声をかけることも重要。



夢がない、、、

またスタッフから云われそうだな。

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40歳からの宮崎アニメ。第二弾は

『千と千尋の神隠し』

である。これはかなり大人向け、っていうか、子供向けではないという意味で前回の『ラピュタ』よりもとっつきやすい。まあ、子供を主人公にしてるからってその映画が「子供向け」とは限らないわけで、すくなくともこれは単純な「子供向け映画」でないことは明らか。

『ラピュタ』のときに感じたのは(ここで『ラピュタ』と比べるのは、ぼくがほかに宮崎アニメを知らないから)、

ひとを見かけや第一印象で判断すると痛い目にあうぞ

というある種の「法則」のようなもので、それは『ラピュタ』では国家や権力といった中心的対象への懐疑心のようなかたちで表れていたけれど、『千と千尋~』ではさらにさまざまな、ある意味よりわかりやすいかたちで描かれている。「釜爺」や「リン」、「オクサレ様」をはじめ、千(千尋)の知らないところで別の顔をもつ「ハク」などがその一例。批判的なメッセージすら感じられた『ラピュタ』にくらべれば、この『千と千尋~』の宮崎監督はずっと柔和だ。柔和という言い方が正しいかはわからないが。いずれにせよ、もはや二項対立的な図式では語れない次元に宮崎監督自身が突入してしまったのは確かだ。

それにしても、いったいこの作品全体に漂う「猥雑さ」のようなものはなんなのだろう? 

ここでは名前を奪ってひとを支配するんだーというハクの台詞が気になって、いろいろ考えを巡らせているなかで映画評論家の町山智浩さんのブログに行き当たった。たぶん有名な話なのだろうけれど、なかなか衝撃的な、でもいろいろなことが腑に落ちる解釈である。

う~む、やっぱりこれはオトナな映画だ。

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さて、本題。

「ジブリのアニメを観たことがない」と言ったらスタッフが『ラピュタ』のDVDを持ってきて貸してくれた、という話は先日書いたとおり。その後、面白がってべつのスタッフがこんどは『千と千尋の神隠し』を貸してくれたのだが(まだ観ていない)、それにくわえてもうひとつ、『攻殻機動隊~Solid State Society』のDVDもあわせて貸してくれたのだった。

「攻殻機動隊」といえば、以前スタッフとしてはたらいていたUが押井守好きで、「オシイマモルって?」とトンチンカンな質問をしたぼくに対して、「コウカクキドウタイですよ」とますます意味不明の返答をして余計ワケがわからなくなった思い出がある。ちなみに、そのときUに「コウカクキドウタイってどんな字書くの?」と尋ねたら、平然と「甲殻類のコウカクですよ」と答え、そのときは「カニかよっ」と思いつつもそのままにしておいたのだが、今回あらためて見たら、

全然ちがうじゃーん。

説明するのが面倒になったな、さては・・・。勝手にカニっぽいロボットを想像してたよ。

まあ、いい。そんなこんなで『攻殻機動隊 Solid State Society』を観たのだった。面倒なのでストーリーは書かない(書けない)が、「少子高齢化問題」「住基ネット」「児童虐待」「孤独死」といった社会問題を軸に「民族問題」やそれが巻き起こす「無差別テロ」といった要素が絡み、かなり混沌かつ暗鬱とした物語が展開される。そして実際のところ、そうした問題のひとつひとつがいまだ解決される見込みがないばかりか、今後ますます重い問題としてぼくらの生活にのしかかってくることが必至なだけに、フィクションとして俯瞰して観ることができないのである。以前、『攻殻機動隊』は「難しい」「よくわからない」という話を小耳にはさんだことがあるのだが、よくありがちな勧善懲悪的なお話とちがってぼくら自身が「正解」を持っていないため、要は観ていて居心地が悪く、不安なのだ、たぶん。

たとえば、この『Solid State Society』でいえば、ラストの後味はきわめて悪い。ソリッド・ステート・システムという概念を構築したコシキタテアキという人物が語ることがらは、あまりに短絡的とはいえ、たしかに的を射ているように思われるのだし、それゆえトグサは自分のしたことに対し「これでよかったんだろうか?」とつい呟かずにはいられないのである。人間が「義体化(肉体の一部をサイボーグ化すること)」によってその可能性を拡張することに成功したとしても、ここで扱われるような問題はけっして解決されるわけではないということを作者は示唆しているのかもしれない。

それにしても『ラピュタ』→『攻殻機動隊』って、このブログいったいどこへ向かおうとしているんだろう???

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自慢じゃないが、宮崎アニメをちゃんと観たことがない。「日本人でそんなひといるんですか?」とスタッフ一同あきれ顔だが、マンガにもアニメにもたいして興味のなかった子供がそのまま大きくなったらそうなった、それだけの話である。

しかし、その日は突然やってきた。ある日、スタッフのひとりが宮崎アニメのDVDを貸してくれるという。とりたてて観たいとも思わないかわりに、なにがなんでも観たくないというワケでもない。なので、さっそく貸してもらい観てみることにしたのだった。

記念すべき人生初のスタジオ・ジブリは、

『天空の城ラピュタ』

とはいえ、ピュアな心など遠いむかしに見失ってしまった、しかもどこで見失ったかすらもはや思い出せない、そんな汚れきったオトナが「いまさら」宮崎アニメの世界に踏み込もうというのだ。真っ向勝負では楽しめないとかんがえたほうがいいだろう。大人には大人の、大人なりの宮崎アニメへのいわば「ツボ」があるんじゃないか? だから自分なりに、自分(=オヤジ)の見方で「宮崎アニメ」を観てみようと思うのだ。つまり、アラフォー世代に贈る

40歳からの宮崎アニメ

そんなテーマを胸に秘めつつ『ラピュタ』を観たいとかんがえたのである。

ーーー

さて、物語は空中に浮かぶ伝説の国にかつて暮らしていた「ラピュタ人」の末裔で、王家の血を引く少女シータと、彼女が先祖から受け継いだ魔法の宝石「飛行石」を狙う「軍隊」と「空賊」、それに彼女を守ろうとする少年パズーによる冒険が軸となっている(まあ、わざわざ書く必要なんてないのだろうけれど)。ちなみに、この『天空の城ラピュタ』が制作されたのは1986年。1941年生まれという宮崎駿にとって45歳のときである。まさしく「四十男」。当然、そこに多少は人生の機微も知った四十男なりのパースペクティヴをみてとることができるにちがいない。

たとえば、ムスカ大佐率いる「軍隊」と、ドーラ率いる「空賊」との描き方のちがいである。

「飛行石」をもつ少女シータを追い回すという意味では、そのどちらもおなじように「悪党」である。だが、物語が進むにつれ人情味を増してゆくドーラに対して、強大な「軍隊」を率いるムスカは目的のためには手段を選ばない冷酷な人物として描かれる。

渡る世間は鬼ばかり。じぶんの国の政府やましてや軍隊が、いつもじぶんを守ってくれると思ったら大間違いだ。

いかにも苦渋に満ちた、四十男らしい箴言がここにはある。あらゆる「力」への懐疑心、反骨精神、孤独を恐れない勇気こそがこの作品の「軸」なんじゃないだろうか? 

さらに、印象的なシーンをもうひとつ。追っ手から逃れたシータとパズーが廃坑の中で「目玉焼きトースト」を食べるシーンがそれである。

ショートケーキの上のイチゴを最初に食べるか? それとも最後までとっておくか?

これはありふれた、だが永遠に答えの出ない問いかけなワケだが、みなしごで炭坑ではたらく少年パズーが「ジュルっ」」という音を立てトーストの上にのっかった目玉焼きを最初に一気食いしてしまうのはわかる気がする。

いっぽう、その様子をみたシータはというと、「おいしそう」と言っておなじように「ジュルっ」と真似をする。もともとはラピュタ王家の血を引き継ぐシータの目には、パズーの、けっして上品とはいえない動作すらも新鮮に映ってしまうのだ。「目玉焼きトースト」でいずれ明らかになる少女の「血統」をほのめかす。それは、オードリー・ヘプバーンが街頭でアイスクリームをほおばる、あの『ローマの休日』のワンシーンを連想させるものだ。いや、ひょっとしてこれは宮崎監督による『ローマの休日』へのオマージュ? などとアラフォーの想像力はとどまるところを知らない・・・

得意じゃない宮崎アニメの話題がでたとき、こんな具合にいろいろ口からでまかせを並べ立て相手を煙に巻いておいて、すかさずじぶんの得意なネタに話を転じる。

これが、「大人の処世術」ってもんじゃないだろうか。・・・着地点、ジブリにまったく関係ナシ(苦笑)。

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