去年から、あるサイトでぽつりぽつりと音楽のコラムを書かせていただいている。「Diabetes Cafe」というそのサイトは、その名のとおり糖尿病(=diabetes)の患者さんや日々現場で治療に従事されている方たちにさまざまな情報を提供したり、ネット上でチャットによるカウンセリングを行ったりといった活動をする「仮想のカフェ」である。
じつは、このサイトを主宰されているのは荻窪時代の常連さんで、「ナラティヴ・アプローチ」という観点から糖尿病の治療にあたっておられる杉本先生というお医者さんである。「ナラティヴ・アプローチ」というのはーいろいろ聞きかじった話を乱暴にまとめてしまうとー、治療をうけるひとそれぞれの「ストーリー」を尊重しつつ「生活の質」を下げることなくひとりひとりの患者さんに相応しい治療の道筋を(患者さんとともに)みつけてゆく、どうやらそういうことらしい(見当違いだったらごめんなさい)。それは従来からの糖尿病治療とはかなり様子が異なるようで、最初は患者さんもずいぶんと戸惑ったりするらしいのだが、次第に能動的に糖尿病とつきあってゆけるよう意識が変わってゆくのだという。
そんな話を荻窪で先生やその患者さんから興味深く聞いていたので、杉本先生から「Diabetes Cafe」のコンテンツとして音楽について書いてほしいと頼まれたときも、看護士さんや管理栄養士といった方々に混じってぼくなんかが書くのは場違いじゃないかとかんがえるよりは、むしろふたつ返事で引き受けてしまったのだった。もしかしたら相当に浮いているのかもしれないが、糖尿病とつきあいながら毎日を過ごされているような方々にとってちょっとした気分転換になったり、たとえばいつもよりも少したくさん歩いてみようかなとか、いつも砂糖をたっぷりいれて飲んでいるコーヒーをきょうはブラックで飲んでみようかなとか、そんなちいさな、ちいさなきっかけにつながる音楽を紹介できれば、とぼくもぼくなりに楽しみながら書かせていただいている。
いま糖尿病で通院されていたり、糖尿病のご家族がいらっしゃったり、あるいはまた「ナラティヴ・アプローチ」について関心を持たれた方はぜひ、いちど「Diaetes Cafe」を訪れてみていただきたいと思います。
『Diabetes Cafe』のトップページはこちら→●から。「今月の音楽」のページはイラストの「ターンテーブル」をクリックしてください。
じつは、このサイトを主宰されているのは荻窪時代の常連さんで、「ナラティヴ・アプローチ」という観点から糖尿病の治療にあたっておられる杉本先生というお医者さんである。「ナラティヴ・アプローチ」というのはーいろいろ聞きかじった話を乱暴にまとめてしまうとー、治療をうけるひとそれぞれの「ストーリー」を尊重しつつ「生活の質」を下げることなくひとりひとりの患者さんに相応しい治療の道筋を(患者さんとともに)みつけてゆく、どうやらそういうことらしい(見当違いだったらごめんなさい)。それは従来からの糖尿病治療とはかなり様子が異なるようで、最初は患者さんもずいぶんと戸惑ったりするらしいのだが、次第に能動的に糖尿病とつきあってゆけるよう意識が変わってゆくのだという。
そんな話を荻窪で先生やその患者さんから興味深く聞いていたので、杉本先生から「Diabetes Cafe」のコンテンツとして音楽について書いてほしいと頼まれたときも、看護士さんや管理栄養士といった方々に混じってぼくなんかが書くのは場違いじゃないかとかんがえるよりは、むしろふたつ返事で引き受けてしまったのだった。もしかしたら相当に浮いているのかもしれないが、糖尿病とつきあいながら毎日を過ごされているような方々にとってちょっとした気分転換になったり、たとえばいつもよりも少したくさん歩いてみようかなとか、いつも砂糖をたっぷりいれて飲んでいるコーヒーをきょうはブラックで飲んでみようかなとか、そんなちいさな、ちいさなきっかけにつながる音楽を紹介できれば、とぼくもぼくなりに楽しみながら書かせていただいている。
いま糖尿病で通院されていたり、糖尿病のご家族がいらっしゃったり、あるいはまた「ナラティヴ・アプローチ」について関心を持たれた方はぜひ、いちど「Diaetes Cafe」を訪れてみていただきたいと思います。
『Diabetes Cafe』のトップページはこちら→●から。「今月の音楽」のページはイラストの「ターンテーブル」をクリックしてください。
アンデルジェフスキというピアニストが目の前で「ディアベリ変奏曲」を弾いている。ベートーヴェンの曲だ。場所は紀尾井ホール。
ベートーヴェンのピアノ曲といってまず思い浮かべるのはピアノソナタかもしれない。情感に訴えかけるメロディーや情熱的なパッセージ、あるいは後期の作品にみる極限まで純化された音による孤高の世界は聴くものを圧倒し、惹きつけてやまない。それにくらべると、この「ディアベリ変奏曲」というのはどうもいまひとつ分が悪い。
タイトルからも想像がつくとおり、これはディアベリ(ディアベッリ)という作曲家がつくった短いワルツを下敷きにした変奏曲集である。変奏曲という性格からすれば、独創的でインスピレーションに満ちた楽想からなる一連のソナタにくらべてどうしても退屈に感じられがちなのは無理もない。ベートーヴェン自身も、この曲で変奏曲をつくってほしいと頼まれたものの気乗りせず、しばらくほったらかしにしていたと云われている。「靴屋のつぎはぎ」。この曲を評してベートーヴェンはそんなふうにも言ったらしい。
ところが、気づいてみたらベートーヴェンはこの「靴屋のつぎはぎ」と呼んだ曲をもとになんと33曲(!)もの変奏曲を書いてしまったのである。いったい、なにが起こったのか?
料理人魂に火がついた
そうかんがえるべきだろう。変奏曲というのはそもそも、「一個の素材」をもとに手を変え品を変えする「料理のようなもの」ではないだろうか。明石でとれた天然物の「鯛」を独創的な料理に仕立てるというのは、ある意味「料理人」としてはしあわせな仕事だろう。じゃあ、手渡されたのがごくふつうの、ありきたりの「里芋」だったらどうか?
里芋かよっ
はじめベートーヴェンはそうつぶやいたのかもしれない。しかし(おそらく)途中で気がついたのだろう。「里芋」で極上の一皿をつくってみんなの度肝をぬかしてやろう。それでこそ一流の料理人じゃないか、と。そうして、一個の「里芋」は33皿もの料理として新たないのちを吹き込まれた。「エッ?これ、ほんと里芋ですかぁ?」そんな眞鍋かをりの感嘆の声もきこえてきそうである。
しかしここが難しい。「里芋」は「里芋」だ。15品めともなると、さすがに驚きを通り越して飽きてくる。「せめてジャガイモありませんかぁ?」さすがの眞鍋かをりも当惑気味である(かたわらで、ギャル曽根だけは黙々と食べつづける)。それはともかく、なにが言いたいのかというと、変奏曲にいちばん重要なのは「ライブ感」だということだ。器にきれいにもられた完成作だけでなく、一個の「里芋」がザクザク刻まれ、こんがりソテーされ、あるいはぐつぐつと煮込まれることでいままさに驚愕の一皿に生まれ変わらんとするそのプロセス、その躍動感を想像させることができなければ、この60分ちかくにもおよぶ33の変奏曲を一気に聴かせることは無理といっていい。
「うわぁセンセー、いっそこのまんま食べさせてほしいわぁ」と思わず調理の途中で口にしてしまう、上沼恵美子のあの感じを思い出してほしいのだ。じっさいベートーヴェンは作曲家としての名声を確立するよりはるか以前から、貴族のサロンなどを中心に「ピアノの名手」として名をはせていた。とりわけその初見演奏の腕前と自由自在な即興演奏で人気を博していたという。いきなり誰かから手渡された一個の素材をあっという間に思いもつかないような見事な作品に仕上げてしまう、そういういわば華麗なる天才料理人ぶりを夜な夜なあちらこちらで見せつけていたわけであって、禁欲的かつシリアスな姿勢でソナタを作曲するのとはまたべつの、そういうベートーヴェンのある一面をもっともよく伝えてくれているのがこうした変奏曲だと考えられる。
さて、では今夜の「ディアベリ」はどうだったか?CDで耳にしてきた並み居る巨匠たちの演奏よりも、もちろん全部が全部とはいわないまでも、ぼくにははるかに面白く感じられた。何人かの「巨匠」たちの演奏ではいまひとつ伝わりづらかった「ライブ感」が、たしかにそこには感じられたからにちがいない。全般にフレッシュ、ときに大胆でときに繊細、そうした振幅の広い演奏のせいだろう。最後の変奏、34曲目などはまさに口直しのシャーベットのようだったのだ。
ベートーヴェンのピアノ曲といってまず思い浮かべるのはピアノソナタかもしれない。情感に訴えかけるメロディーや情熱的なパッセージ、あるいは後期の作品にみる極限まで純化された音による孤高の世界は聴くものを圧倒し、惹きつけてやまない。それにくらべると、この「ディアベリ変奏曲」というのはどうもいまひとつ分が悪い。
タイトルからも想像がつくとおり、これはディアベリ(ディアベッリ)という作曲家がつくった短いワルツを下敷きにした変奏曲集である。変奏曲という性格からすれば、独創的でインスピレーションに満ちた楽想からなる一連のソナタにくらべてどうしても退屈に感じられがちなのは無理もない。ベートーヴェン自身も、この曲で変奏曲をつくってほしいと頼まれたものの気乗りせず、しばらくほったらかしにしていたと云われている。「靴屋のつぎはぎ」。この曲を評してベートーヴェンはそんなふうにも言ったらしい。
ところが、気づいてみたらベートーヴェンはこの「靴屋のつぎはぎ」と呼んだ曲をもとになんと33曲(!)もの変奏曲を書いてしまったのである。いったい、なにが起こったのか?
料理人魂に火がついた
そうかんがえるべきだろう。変奏曲というのはそもそも、「一個の素材」をもとに手を変え品を変えする「料理のようなもの」ではないだろうか。明石でとれた天然物の「鯛」を独創的な料理に仕立てるというのは、ある意味「料理人」としてはしあわせな仕事だろう。じゃあ、手渡されたのがごくふつうの、ありきたりの「里芋」だったらどうか?
里芋かよっ
はじめベートーヴェンはそうつぶやいたのかもしれない。しかし(おそらく)途中で気がついたのだろう。「里芋」で極上の一皿をつくってみんなの度肝をぬかしてやろう。それでこそ一流の料理人じゃないか、と。そうして、一個の「里芋」は33皿もの料理として新たないのちを吹き込まれた。「エッ?これ、ほんと里芋ですかぁ?」そんな眞鍋かをりの感嘆の声もきこえてきそうである。
しかしここが難しい。「里芋」は「里芋」だ。15品めともなると、さすがに驚きを通り越して飽きてくる。「せめてジャガイモありませんかぁ?」さすがの眞鍋かをりも当惑気味である(かたわらで、ギャル曽根だけは黙々と食べつづける)。それはともかく、なにが言いたいのかというと、変奏曲にいちばん重要なのは「ライブ感」だということだ。器にきれいにもられた完成作だけでなく、一個の「里芋」がザクザク刻まれ、こんがりソテーされ、あるいはぐつぐつと煮込まれることでいままさに驚愕の一皿に生まれ変わらんとするそのプロセス、その躍動感を想像させることができなければ、この60分ちかくにもおよぶ33の変奏曲を一気に聴かせることは無理といっていい。
「うわぁセンセー、いっそこのまんま食べさせてほしいわぁ」と思わず調理の途中で口にしてしまう、上沼恵美子のあの感じを思い出してほしいのだ。じっさいベートーヴェンは作曲家としての名声を確立するよりはるか以前から、貴族のサロンなどを中心に「ピアノの名手」として名をはせていた。とりわけその初見演奏の腕前と自由自在な即興演奏で人気を博していたという。いきなり誰かから手渡された一個の素材をあっという間に思いもつかないような見事な作品に仕上げてしまう、そういういわば華麗なる天才料理人ぶりを夜な夜なあちらこちらで見せつけていたわけであって、禁欲的かつシリアスな姿勢でソナタを作曲するのとはまたべつの、そういうベートーヴェンのある一面をもっともよく伝えてくれているのがこうした変奏曲だと考えられる。
さて、では今夜の「ディアベリ」はどうだったか?CDで耳にしてきた並み居る巨匠たちの演奏よりも、もちろん全部が全部とはいわないまでも、ぼくにははるかに面白く感じられた。何人かの「巨匠」たちの演奏ではいまひとつ伝わりづらかった「ライブ感」が、たしかにそこには感じられたからにちがいない。全般にフレッシュ、ときに大胆でときに繊細、そうした振幅の広い演奏のせいだろう。最後の変奏、34曲目などはまさに口直しのシャーベットのようだったのだ。
![]() | Beethoven: Diabelli Variations (2001/07/03) Virgin この商品の詳細を見る |

本当にいいなあと思える演奏と出会ったとき、つくづく音楽について語るなんて意味のないばかげたことだなあと感じる。それでもなお、そうせずにはいられないほどにリチャード・グードが弾いたモーツァルトのピアノ協奏曲はすばらしい。
ぼくはピアノの音色についてまったくといってよいほど自信が、ない。にもかかわらず、グードの弾くピアノの音色がとても独特であることはよくわかる。粒立ちがよく透明感にあふれてはいるけれど、けっして線が細いわけではない。ときに男性的で力強くもあるが、重厚というのとは少しちがっている。軽やかさにしても上滑りするような感じではなく、馬のギャロップのようにしっかり脚が地についている感じだ。とてもリリカルに歌う部分もけっしてその歌に溺れることはしない。粘らないのだ。ことばで追っかけようとすればするほど、その本質は影法師のように逃げてゆく。ことばからもっとも遠いところにグードのピアノは、ある。
音が濁らない、それもグードのピアノのきわだった特徴といえるかもしれない。言い方を変えれば、その演奏はとても明快である。ふつう赤と青、ふたつの色が混じりあうと紫になる。音楽でいえば和音、赤と青は紫色の和音を生む。ところが、グードが弾くと赤は赤、青は青のままふたつの音は持続し両立する。紫にならない(どんどん感覚的で意味不明になってゆくなあ)。ではどうなのかというと、赤と青によって紫色を暗示するのがグードのピアノだ。油絵のようなベタついた色彩はどこにもなく、どこまでも淡くさわやか。
そして、この演奏のもうひとつの聴きどころといえば競演しているオルフェウス室内管弦楽団にある。彼らのサウンドもまた、とても明快だ。すべての音が透けてみえるかのような見通しのよさがあり、リズムも生き生きと弾んでいる。グードのピアノとのかけあいもまさに絶妙というほかなく、全編にわたって音楽するよろこびにあふれている。ピースフルな、かけがえのないモーツァルト。
それにしても、こんなにすばらしいCDがなんと日本では廃盤になったままとはひどい話だ(たまに中古CD屋で千円前後で売られているのをみかける)。レーベルはニューヨークにあるNonesuch、地味ながら隠れた名盤をたくさんリリースしている知る人ぞ知るレコード会社である。ちなみに、以前べつのコラムで紹介したことのある名盤もここからでている。
このブログでもたびたび触れているホセ・ゴンザレス(プロレスラーではない)。アルゼンチン系の両親をもつスウェーデンのシンガーである。そのホセ・ゴンによる待望の初来日、しかも日本でたった一度きりというライブに行ってきた。
基本的にはギター一本による弾き語りで、曲によってはパーカッション、それにコーラス(いまや《北欧の歌姫》として引っ張りだこのユキミナガノ)が加わるというスタイル。予想どおり、と言うべきか、ほとんどMCなしで正味一時間弱というあっさりとしたものだったのだが、なかなか中身の濃いいいライブだった。
ホセゴンの弾くギターは、ときにスパニッシュ・ギター風のパッセージがあったりして、CDで聴く以上にスケールの大きさを感じさせるものだったとはいえ、その繊細なボーカル同様、けっして熱くならないところが、いかにも北欧育ちといった印象。クールを気取る、のではなく、音楽のボルテージが上がれば上がるほど、なぜかそこに立ち昇ってくる空気は逆に冷めてゆく感じ。その思いが熱ければ熱いほど、外に吐き出される息は白さを増すように。
個人的には、いわゆるスウェディッシュポップや北欧のクラブジャズよりもずっと、ホセ・ゴンザレスの音楽に北欧の冴え冴えとしたあの空気を感じる。ライブに接して、その変わらない温度感にいっそうその思いを強くした。
ちなみにホセゴン、8月にはサマソニへの出演も決定したようです。
基本的にはギター一本による弾き語りで、曲によってはパーカッション、それにコーラス(いまや《北欧の歌姫》として引っ張りだこのユキミナガノ)が加わるというスタイル。予想どおり、と言うべきか、ほとんどMCなしで正味一時間弱というあっさりとしたものだったのだが、なかなか中身の濃いいいライブだった。
ホセゴンの弾くギターは、ときにスパニッシュ・ギター風のパッセージがあったりして、CDで聴く以上にスケールの大きさを感じさせるものだったとはいえ、その繊細なボーカル同様、けっして熱くならないところが、いかにも北欧育ちといった印象。クールを気取る、のではなく、音楽のボルテージが上がれば上がるほど、なぜかそこに立ち昇ってくる空気は逆に冷めてゆく感じ。その思いが熱ければ熱いほど、外に吐き出される息は白さを増すように。
個人的には、いわゆるスウェディッシュポップや北欧のクラブジャズよりもずっと、ホセ・ゴンザレスの音楽に北欧の冴え冴えとしたあの空気を感じる。ライブに接して、その変わらない温度感にいっそうその思いを強くした。
![]() | VENEER JOSE GONZALEZ (2005/07/09) OCTAVE/ULTRA-VYBE,INC. この商品の詳細を見る |
ちなみにホセゴン、8月にはサマソニへの出演も決定したようです。
めでたいなぁ〜。遂にホセゴンこと、Jose Gonzalez(ホセ・ホンザレス)の来日公演が決定!!!しかも、たった一日限りの日本公演の日が・・・火曜日(=moiの定休日!)。というわけで、もちろんチケット予約しましたさ。ニシムラさん、情報ありがとうございます!
ちなみに「ホセゴン」の正体はというと、素晴らしい歌心あふれるアルゼンチン系スウェーデン人のシンガーソングライター。去年、サンフランシスコの坂道を二十五万個の「スーパーボール」が転がり落ちるSONY(UK)の「BRAVIA」のCFに起用されて一躍脚光を浴びてました。
ライブ、楽しみだぁ。
来日情報はこちら→●
※興味のある方は、You Tubeでチェック(こちらをクリック→●)。
ちなみに「ホセゴン」の正体はというと、素晴らしい歌心あふれるアルゼンチン系スウェーデン人のシンガーソングライター。去年、サンフランシスコの坂道を二十五万個の「スーパーボール」が転がり落ちるSONY(UK)の「BRAVIA」のCFに起用されて一躍脚光を浴びてました。
ライブ、楽しみだぁ。
来日情報はこちら→●
※興味のある方は、You Tubeでチェック(こちらをクリック→●)。
![]() | VENEER JOSE GONZALEZ (2005/07/09) OCTAVE/ULTRA-VYBE,INC. この商品の詳細を見る |
リヒテルというピアニストが、ノルウェーの作曲家グリーグのつくった小品ばかりを弾いているCDを聴いた。
グリーグというと、フィンランドの作曲家シベリウスとならんで北欧を代表する作曲家のひとりである。よって、このふたりの音楽にはどことなくおなじ種類の空気が流れているような気がしてならない。ところが、こうしてまとめて聴いているうち、そこには明らかなちがいがあるように思えてきたのだった。
何がちがうかというと、グリーグの音楽には「山」がある。「高み」から見やる「眺望」がある。湾曲した半島に絡みつく急坂があり、山あいに沈む夕日があり、眼下に広がる入江やフィヨルドにこだまする声が、ある。対して、シベリウスの音楽にあるのはひたすらに続く雪原であり、湿地であり、松や白樺が生い茂る森であって、そこでは太陽は一気に一面を照らし出す。
あくまでも感覚的な印象にすぎないとはいえ、ノルウェーとフィンランドのちがいがこんな風に、そこで生まれ育ったふたりの作曲家の音楽に刻印されていたとしても不思議はない。ちなみにグリーグはことし没後百年、いっぽうシベリウスは没後五十年、まとめ聴きするにはいい機会かもしれない。
![]() | Grieg: Lyrische St?cke (1996/04/16) Live Classics この商品の詳細を見る |
グリーグというと、フィンランドの作曲家シベリウスとならんで北欧を代表する作曲家のひとりである。よって、このふたりの音楽にはどことなくおなじ種類の空気が流れているような気がしてならない。ところが、こうしてまとめて聴いているうち、そこには明らかなちがいがあるように思えてきたのだった。
何がちがうかというと、グリーグの音楽には「山」がある。「高み」から見やる「眺望」がある。湾曲した半島に絡みつく急坂があり、山あいに沈む夕日があり、眼下に広がる入江やフィヨルドにこだまする声が、ある。対して、シベリウスの音楽にあるのはひたすらに続く雪原であり、湿地であり、松や白樺が生い茂る森であって、そこでは太陽は一気に一面を照らし出す。
あくまでも感覚的な印象にすぎないとはいえ、ノルウェーとフィンランドのちがいがこんな風に、そこで生まれ育ったふたりの作曲家の音楽に刻印されていたとしても不思議はない。ちなみにグリーグはことし没後百年、いっぽうシベリウスは没後五十年、まとめ聴きするにはいい機会かもしれない。
寒い。凍えるようなとはいかないまでも、冷たい北風が身にしみる。そこで引っぱりだしてきたのは、ことし二〇〇七年がちょうど没後五十年にあたるフィンランドの国民的作曲家シベリウスの、交響曲第二番のCD。
ところでこのシベリウスの「交響曲第二番」といえば、「プラティニ国際指揮者コンクール」で優勝した「千秋真一」が、そのパリ・デビューにあたってとりあげた曲ということになっている。で、それと同じく(?)、弱冠二十三歳で「第一回カラヤン指揮者コンクール」に優勝したフィンランドの指揮者オッコ・カムが、その「ごほうび」としてカラヤンの手兵「ベルリン・フィル」とともにレコードデビューを飾ったのもまた、この「交響曲第二番」である。
それにしても、このオッコ・カム指揮ベルリンフィルによるシベリウスの交響曲第二番はすごい!(しかも一枚たったの千円だ)。カムの演奏はライブもふくめたびたび耳にしてきているが、どちらかといえば手堅いアプローチをする渋い指揮者というイメージがあった。とりわけ、長身でスリムなルックス同様、その演奏もスマートで、ちょっと線の細い印象があったのだ。ところが、である。これは違う。ぜんぜん、違う。「若さゆえ」ということもあるだろうし、「お国もの」のシベリウスということもあるのだろう、とにかく自信に満ちた足取りで悠然と歩を進める堂々たるシベリウスだ。終楽章など、まったくありえないような遅さでありながら、最後までテンションが下がることがない。もちろんそれは、相手がベルリンフィルという世界最強のオケだからこそできた思い切ったテンポ設定であって、その意味ではまさに一期一会の名演奏ということになるかもしれない。
その後のカムはといえば、人望は厚いが、出世街道からはやや外れてしまった万年「課長」的なスタンスに甘んじているようにみえる。だいたい、「Virtual Finland」の「Famous Finns」の欄にかれの名前がないというのはいったいどうなっているのか?「moiのプッラを食べたかもしれない指揮者」として、ここ数年、以前にもましてカムを応援しているぼくとしてはまったく歯がゆいばかりである。ぼくの勝手な推理では、多分に「フィンランド人的気質」が影響しているのではないだろうか?いずれにせよ、ベルリンフィル相手にこれだけの熱い演奏を繰り広げられる指揮者のこと、まだまだこの先ドカン!とやらかしてくれるのではないかと密かに期待せずにはいられないのだ。
ところでこのシベリウスの「交響曲第二番」といえば、「プラティニ国際指揮者コンクール」で優勝した「千秋真一」が、そのパリ・デビューにあたってとりあげた曲ということになっている。で、それと同じく(?)、弱冠二十三歳で「第一回カラヤン指揮者コンクール」に優勝したフィンランドの指揮者オッコ・カムが、その「ごほうび」としてカラヤンの手兵「ベルリン・フィル」とともにレコードデビューを飾ったのもまた、この「交響曲第二番」である。
それにしても、このオッコ・カム指揮ベルリンフィルによるシベリウスの交響曲第二番はすごい!(しかも一枚たったの千円だ)。カムの演奏はライブもふくめたびたび耳にしてきているが、どちらかといえば手堅いアプローチをする渋い指揮者というイメージがあった。とりわけ、長身でスリムなルックス同様、その演奏もスマートで、ちょっと線の細い印象があったのだ。ところが、である。これは違う。ぜんぜん、違う。「若さゆえ」ということもあるだろうし、「お国もの」のシベリウスということもあるのだろう、とにかく自信に満ちた足取りで悠然と歩を進める堂々たるシベリウスだ。終楽章など、まったくありえないような遅さでありながら、最後までテンションが下がることがない。もちろんそれは、相手がベルリンフィルという世界最強のオケだからこそできた思い切ったテンポ設定であって、その意味ではまさに一期一会の名演奏ということになるかもしれない。
その後のカムはといえば、人望は厚いが、出世街道からはやや外れてしまった万年「課長」的なスタンスに甘んじているようにみえる。だいたい、「Virtual Finland」の「Famous Finns」の欄にかれの名前がないというのはいったいどうなっているのか?「moiのプッラを食べたかもしれない指揮者」として、ここ数年、以前にもましてカムを応援しているぼくとしてはまったく歯がゆいばかりである。ぼくの勝手な推理では、多分に「フィンランド人的気質」が影響しているのではないだろうか?いずれにせよ、ベルリンフィル相手にこれだけの熱い演奏を繰り広げられる指揮者のこと、まだまだこの先ドカン!とやらかしてくれるのではないかと密かに期待せずにはいられないのだ。
![]() | シベリウス:交響曲第2番 カム(オッコ) (2006/11/08) ユニバーサルクラシック この商品の詳細を見る |




