先日、TWEE GRRRLS CLUBさんのイベント「Twee TV Club~Nordic Night」に呼んでいただいたのをきっかけに、ここ数年ほとんど聴くことのなかったスウェーデンのポップミュージックをインターネットとこの辺りの音楽にくわしいスタッフの知識を総動員しつつ怒濤の如く聴きこんでみた。
聴き込んでみたはいいが、気づけばそうして溜め込んだ情報をアウトプットする場がない……(笑)。当初親切に教えてくれたスタッフもいまやうんざりした様子だ。気づけばとんでもなく遠くまで来てしまったらしい(まあ、いつもの話ではあるけれど……)。そこで、ここ一ヶ月弱ほどのあいだに出会ったスウェーデンのポップミュージックのうち、自分の「お眼鏡」にかなったいくつかのバンドを紹介していきたいと思う。あわせて、その「お眼鏡」がどんなものなのか? についても語れればともくろんではいるのだが…… さて、どうだろう?
というわけで、第一回(第二回があるかどうかはわからないけど)。
世の中には、ふと気づけば手に取ってしまうレコードというものがある。たとえばぼくの場合、「大所帯」のグループによるレコードがそれにあたる。こんなジャケットやあんなジャケットに思わず胸がときめく。メンバーは、最低でも10人は欲しい(笑)。で、探したらいました、そんなステキなグループがスウェーデンにも! その名は、
I'M FROM BARCERONA(アイム・フロム・バルセロナ)
れっきとしたスウェーデン出身ながらバンドの名前は「バルセロナ出身」。バンドの結成は2005年、ヴォーカルのエマニュエル・ルンドグレンの楽曲を彼の友人がよってたかって(笑)レコーディングしたところ、思いがけず話題になりあれよあれよという間に超メジャーレーベルのEMIと契約することになってしまったというウソのようなホントの話らしい。で、そのときのメンバーがなんと!
29人!!!
しかし、1stアルバムを聴いたかぎり聴こえてくるのはせいぜい10人分くらいの音…… というのは、まあ、ご愛嬌(笑)。ほとんどの楽曲はリーダーであり、リードヴォーカルを務めるエマニュエルが書いているのだが、甘酸っぱさの薫る覚えやすいメロディーはソフトロック好きにはなかなかたまらないものがある。
ところで、個人的には「大所帯」「ソフトロック」というキーワードからまず思い浮かぶのは70年代のいわゆる「宗教ソフトロック」とか「CCM(Contemporary Christian Music)」だったりするのだが、じっさいこのアイム・フロム・バルセロナからももそんな「匂い」がプンプンと漂ってくる。とりわけ、よく新聞受けに投函されている「その手の」パンフレットを思わせる1stアルバムのジャケットなんていかにもあやしい。あやしすぎる。そう思ってちょこっと調べてはみたものの、いまひとつその正体はわからない。あるいは、ただたんにソフトロック好きで、勢い余って疑似CCM的な世界を演じているだけだったりして!?
それはさておき、彼らのつくる音楽のなんてポップであっけらかんとしていることよ! たとえば、このバンドの「テーマソング」ともいえそうな「We Are From Barcerona」。正直、アホくさいほどの能天気さにふと微妙な気分になりつつも気づけばいっしょになってコーラスを口ずさんでいる。そう、そうなのだ。こういう「シング・アロング」的なわかりやすさこそが彼らの「持ち味」であり、「芸風」なのである。
とりわけぼくが好きな一曲は、1stアルバムに収められた「This Boy」。
ここでもなにかとりたてて「ひねり」があるわけではないのだけれど、その「青さ」がなんとも魅力的なポップソングになっている。
このなにかと生きづらい世界にあって、たった3分だけ夢を見させてくれるのがポップミュージックであるとするなら、彼らアイム・フロム・バルセロナの音楽こそはまさに「王道のポップソング」と言っていいのではないだろうか。
聴き込んでみたはいいが、気づけばそうして溜め込んだ情報をアウトプットする場がない……(笑)。当初親切に教えてくれたスタッフもいまやうんざりした様子だ。気づけばとんでもなく遠くまで来てしまったらしい(まあ、いつもの話ではあるけれど……)。そこで、ここ一ヶ月弱ほどのあいだに出会ったスウェーデンのポップミュージックのうち、自分の「お眼鏡」にかなったいくつかのバンドを紹介していきたいと思う。あわせて、その「お眼鏡」がどんなものなのか? についても語れればともくろんではいるのだが…… さて、どうだろう?
というわけで、第一回(第二回があるかどうかはわからないけど)。
世の中には、ふと気づけば手に取ってしまうレコードというものがある。たとえばぼくの場合、「大所帯」のグループによるレコードがそれにあたる。こんなジャケットやあんなジャケットに思わず胸がときめく。メンバーは、最低でも10人は欲しい(笑)。で、探したらいました、そんなステキなグループがスウェーデンにも! その名は、
I'M FROM BARCERONA(アイム・フロム・バルセロナ)
れっきとしたスウェーデン出身ながらバンドの名前は「バルセロナ出身」。バンドの結成は2005年、ヴォーカルのエマニュエル・ルンドグレンの楽曲を彼の友人がよってたかって(笑)レコーディングしたところ、思いがけず話題になりあれよあれよという間に超メジャーレーベルのEMIと契約することになってしまったというウソのようなホントの話らしい。で、そのときのメンバーがなんと!
29人!!!
しかし、1stアルバムを聴いたかぎり聴こえてくるのはせいぜい10人分くらいの音…… というのは、まあ、ご愛嬌(笑)。ほとんどの楽曲はリーダーであり、リードヴォーカルを務めるエマニュエルが書いているのだが、甘酸っぱさの薫る覚えやすいメロディーはソフトロック好きにはなかなかたまらないものがある。
ところで、個人的には「大所帯」「ソフトロック」というキーワードからまず思い浮かぶのは70年代のいわゆる「宗教ソフトロック」とか「CCM(Contemporary Christian Music)」だったりするのだが、じっさいこのアイム・フロム・バルセロナからももそんな「匂い」がプンプンと漂ってくる。とりわけ、よく新聞受けに投函されている「その手の」パンフレットを思わせる1stアルバムのジャケットなんていかにもあやしい。あやしすぎる。そう思ってちょこっと調べてはみたものの、いまひとつその正体はわからない。あるいは、ただたんにソフトロック好きで、勢い余って疑似CCM的な世界を演じているだけだったりして!?
それはさておき、彼らのつくる音楽のなんてポップであっけらかんとしていることよ! たとえば、このバンドの「テーマソング」ともいえそうな「We Are From Barcerona」。正直、アホくさいほどの能天気さにふと微妙な気分になりつつも気づけばいっしょになってコーラスを口ずさんでいる。そう、そうなのだ。こういう「シング・アロング」的なわかりやすさこそが彼らの「持ち味」であり、「芸風」なのである。
とりわけぼくが好きな一曲は、1stアルバムに収められた「This Boy」。
ここでもなにかとりたてて「ひねり」があるわけではないのだけれど、その「青さ」がなんとも魅力的なポップソングになっている。
このなにかと生きづらい世界にあって、たった3分だけ夢を見させてくれるのがポップミュージックであるとするなら、彼らアイム・フロム・バルセロナの音楽こそはまさに「王道のポップソング」と言っていいのではないだろうか。
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もんやりとした曇り空の朝、コーヒーを飲みながらゲイリー・マクファーランド+ピーター・スミスのレコード『バタースコッチ・ラム』を聴いた。

きのうは早朝、日本が決勝トーナメント行きを決めたサッカーの試合を観たおかげで、一日中「時差ボケ」並みのひどい眠気に悩まされた。そのせいもあってゆうべは早めに眠り、そのぶんいつもよりレコード一枚分、つまり45分ほど早く起きた。そしてまだ、なんとなく「時差ボケ」の残るアタマが選んだ一枚がこのレコードだったというわけだ。
ところでこのアルバム、ゲイリー・マクファーランドの遺作にして異色作である。1971年、このアルバムをリリースした数ヶ月後にゲイリー・マクファーランドは亡くなっている。38歳だった。そして「異色作」というのはほかでもない、このアルバムが全編「歌モノ」であるということにある。
たしかにゲイリー・マクファーランドの他の作品にもボーカル入りの曲はすくなくない。けれどもたいていは、みずからヴィヴラフォンを演奏しながら、そのメロディーにユニゾンでふわーっとスキャットを被せているのがほとんど、こんな風にアルバム全体が歌詞つきの歌で構成されているのは唯一の例外といえる。しかも、このアルバムではゲイリー・マクファーランドと画家で詩人でもあるピーター・スミス(ジャケットのイラストも担当)とが交互にリードボーカルをとっているのだ。歌手が「本業」ではないふたりがつくったボーカルアルバムだなんて、制作の経緯をかんがえればかんがえるほどミステリアスな作品である。そして、そんなミステリアスな作品を残してゲイリー・マクファーランドは逝ってしまった……。
針を落とし、聞こえてくる音に耳を澄ます。なんとなく頼りない(「本業」じゃないのだから当たり前だが)ふたりの歌声のせいか、全体が生暖かい靄につつまれたかのような印象である。でも、けっしてドリーミーというわけではない。そこには「甘さ」が、決定的に欠けている。むしろ、バタースコッチ・ラムの味? 味わったことないからよくわからないな。どちらかといえば、きっとそれは「ほろ苦い」のだろう。
このアルバムでは、とりわけオープニングを飾る一曲「All My Better Days」がすばらしいということになっている。じっさい、胸やけするくらいいい曲だと思う。けれども、アルバムの中から一曲だけ取り出してうんぬんするのは愚かしいとも思う。たとえばビーチボーイズの『ペットサウンズ』がそうであるように、この『バタースコッチ・ラム』もまたアルバム全体であまりにも儚く美しいひとつの世界を現前させているからだ。歌うことを「本業」としないふたりのアーティストが、あえて歌うことによって世に問いたかった世界、そのどこか危なっかしい魅力が耳をとらえて放さない。
ターンテーブルをお持ちの方はぜひレコードで、そうでない方は廃盤になってしまっているCDをぜひ中古で探してみてください。「All My Better Days」を試聴できるサイトはたとえばこちら→●で。

きのうは早朝、日本が決勝トーナメント行きを決めたサッカーの試合を観たおかげで、一日中「時差ボケ」並みのひどい眠気に悩まされた。そのせいもあってゆうべは早めに眠り、そのぶんいつもよりレコード一枚分、つまり45分ほど早く起きた。そしてまだ、なんとなく「時差ボケ」の残るアタマが選んだ一枚がこのレコードだったというわけだ。
ところでこのアルバム、ゲイリー・マクファーランドの遺作にして異色作である。1971年、このアルバムをリリースした数ヶ月後にゲイリー・マクファーランドは亡くなっている。38歳だった。そして「異色作」というのはほかでもない、このアルバムが全編「歌モノ」であるということにある。
たしかにゲイリー・マクファーランドの他の作品にもボーカル入りの曲はすくなくない。けれどもたいていは、みずからヴィヴラフォンを演奏しながら、そのメロディーにユニゾンでふわーっとスキャットを被せているのがほとんど、こんな風にアルバム全体が歌詞つきの歌で構成されているのは唯一の例外といえる。しかも、このアルバムではゲイリー・マクファーランドと画家で詩人でもあるピーター・スミス(ジャケットのイラストも担当)とが交互にリードボーカルをとっているのだ。歌手が「本業」ではないふたりがつくったボーカルアルバムだなんて、制作の経緯をかんがえればかんがえるほどミステリアスな作品である。そして、そんなミステリアスな作品を残してゲイリー・マクファーランドは逝ってしまった……。
針を落とし、聞こえてくる音に耳を澄ます。なんとなく頼りない(「本業」じゃないのだから当たり前だが)ふたりの歌声のせいか、全体が生暖かい靄につつまれたかのような印象である。でも、けっしてドリーミーというわけではない。そこには「甘さ」が、決定的に欠けている。むしろ、バタースコッチ・ラムの味? 味わったことないからよくわからないな。どちらかといえば、きっとそれは「ほろ苦い」のだろう。
このアルバムでは、とりわけオープニングを飾る一曲「All My Better Days」がすばらしいということになっている。じっさい、胸やけするくらいいい曲だと思う。けれども、アルバムの中から一曲だけ取り出してうんぬんするのは愚かしいとも思う。たとえばビーチボーイズの『ペットサウンズ』がそうであるように、この『バタースコッチ・ラム』もまたアルバム全体であまりにも儚く美しいひとつの世界を現前させているからだ。歌うことを「本業」としないふたりのアーティストが、あえて歌うことによって世に問いたかった世界、そのどこか危なっかしい魅力が耳をとらえて放さない。
ターンテーブルをお持ちの方はぜひレコードで、そうでない方は廃盤になってしまっているCDをぜひ中古で探してみてください。「All My Better Days」を試聴できるサイトはたとえばこちら→●で。
フィンランドのジャズの、あの青白い光を放つような響きはいったいなんなのだろう? おととしの暮れ、ニクラス・ウィンターとユッカ・エスコラ(The Five Corners Quintet)というふたりのフィンランド人ミュージシャンを迎えておこなわれた新澤健一郎トリオのライブに接したとき、ぼくはたしかそんなことを考えていたのだった。
ジャズには全然くわしくはないけれど、その「感覚」は知っている。フィンランドの「空気」だ。湿度のないキリッとしたあの空気、すべての事物の輪郭をくっきりと表出させる、あの明晰な空気である。彼らの演奏を聴いたとき、そんな北の空気、もっといえば北の夜の空気を思い出してぼくはわくわくしたのだ。
音楽の説明としてはあまりにも舌足らずなのを承知の上で、あえてぼくは彼らが奏でるジャズのむこうにフィンランドを感じに出かけようと思っている。こんな聴き方も許してくれるような懐の深さが、彼らの演奏にはあると思うから。
ぜひ、いっしょに北欧の夜の気配を感じてみませんか?
くわしくは、以下をご覧ください(コピペですいません)。ちなみにぼくは、4/6のJZ Bratにお邪魔する予定。
-----------------------------------------------
Niklas Winter & Jukka Eskola from フィンランド
meet 新澤健一郎 Trio 2010
北欧ジャズの”現”体験へ。
森と湖の国フィンランドの実力派ギタリスト、ニクラス・ウインターと
「The Five Corners Quintet」で名高いユッカ・エスコラ(tp)。
大好評を博した新澤健一郎トリオとのコラボレーション再び!
公式サイト:
http://www.finnishmusic.jp/niklaswinter/
Niklas Winter(g),
Jukka Eskola(tp,flh)
新澤健一郎(p)
鳥越啓介(b)
大槻KALTA英宣(ds)
4/3(土) 横浜JazzSpot DOLPHY
開場 午後6:30 開演 午後7:30
前売¥3500/当日¥3800
予約・問:045-261-4542
横浜市中区宮川町2-17-4 第一西村ビル2F
http://www.dolphy-jazzspot.com/
4/4(日) 本厚木Cabin
開場 午後6:00 開演 午後7:00
チャージ¥3500
予約・問:046-221-0785
神奈川県厚木市中町2-7-23ふじビル5F
小田急線「本厚木」駅北口 徒歩3分
(一番街を直進、左手に看板が見えます)
http://cabin.sgr.bz/
4/6(火) 渋谷JZ Brat
開場 午後5:30 開演 午後7:30(1st),9:00(2nd) 入替無し
予約¥4200/当日¥4500+オーダー
予約・問:03-5728-0168
http://www.jzbrat.com/
ジャズには全然くわしくはないけれど、その「感覚」は知っている。フィンランドの「空気」だ。湿度のないキリッとしたあの空気、すべての事物の輪郭をくっきりと表出させる、あの明晰な空気である。彼らの演奏を聴いたとき、そんな北の空気、もっといえば北の夜の空気を思い出してぼくはわくわくしたのだ。
音楽の説明としてはあまりにも舌足らずなのを承知の上で、あえてぼくは彼らが奏でるジャズのむこうにフィンランドを感じに出かけようと思っている。こんな聴き方も許してくれるような懐の深さが、彼らの演奏にはあると思うから。
ぜひ、いっしょに北欧の夜の気配を感じてみませんか?
くわしくは、以下をご覧ください(コピペですいません)。ちなみにぼくは、4/6のJZ Bratにお邪魔する予定。
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Niklas Winter & Jukka Eskola from フィンランド
meet 新澤健一郎 Trio 2010
北欧ジャズの”現”体験へ。
森と湖の国フィンランドの実力派ギタリスト、ニクラス・ウインターと
「The Five Corners Quintet」で名高いユッカ・エスコラ(tp)。
大好評を博した新澤健一郎トリオとのコラボレーション再び!
公式サイト:
http://www.finnishmusic.jp/niklaswinter/
Niklas Winter(g),
Jukka Eskola(tp,flh)
新澤健一郎(p)
鳥越啓介(b)
大槻KALTA英宣(ds)
4/3(土) 横浜JazzSpot DOLPHY
開場 午後6:30 開演 午後7:30
前売¥3500/当日¥3800
予約・問:045-261-4542
横浜市中区宮川町2-17-4 第一西村ビル2F
http://www.dolphy-jazzspot.com/
4/4(日) 本厚木Cabin
開場 午後6:00 開演 午後7:00
チャージ¥3500
予約・問:046-221-0785
神奈川県厚木市中町2-7-23ふじビル5F
小田急線「本厚木」駅北口 徒歩3分
(一番街を直進、左手に看板が見えます)
http://cabin.sgr.bz/
4/6(火) 渋谷JZ Brat
開場 午後5:30 開演 午後7:30(1st),9:00(2nd) 入替無し
予約¥4200/当日¥4500+オーダー
予約・問:03-5728-0168
http://www.jzbrat.com/
土用の丑の日、バレンタインデーのチョコレートとならび、うまいこと仕掛けがハマってこの国に定着した「風習」のひとつに「年末の第九」というのが、ある。土用にうなぎを食べる習慣がなく、バレンタインデーにチョコをもらうことも少なくなったこのぼくも、ここ数年「年末の第九」だけは欠かしていない。ことしも残すところあと・・・というこの時期「第九」を聴くと、いいこともよくないこともひとまずぜんぶリセットして、また新しい気持ちで一年を迎えましょうという気分になれるのがいい。まさに「一年の節目」。ことしはきのう、読売日本交響楽団の「第九」に行ってきた(サントリーホール)。指揮はオスモ・ヴァンスカ、フィンランド人である。

それにしても、ヴァンスカ、いい! ヒュヴァ!ヒュヴァ! である。なにより「痛快」、全体はコンパクトながら音楽の端々にまで力が漲った、いわば「逆三角形」のマッチョな「第九」だ。とはいえ、繊細なピアニッシモや短いフレーズのなかでのクレッシェンドの多用、アーティキュレーションの自在さなどどこをとっても考え抜かれていてたんなる「筋肉バカ」じゃないところがいい。さすがは思慮深いフィンランド人(←身びいき 笑)である。
とくに今回はじめて、「対向配置」という、指揮台をはさんで両側に第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンを配置した編成で「第九」を聴いたのだが、それがこの曲では驚くほどの威力を発揮していて、これまでなんでこういうシフトをとっていなかったのだろう? とむしろ不思議にすら思えてくるのだった。第一楽章の主題のかけあい、第二楽章の冒頭の受け渡し、第三楽章での音楽の対話と、挙げていったらキリがない。それは、こういう効果を期待してベートーヴェンはこの曲を書いたのだろうと考えさせるに十分な説得力があった(一説によると、ベートーヴェンが生きていたころはこの「対向配置」が一般的だったらしい)。
合唱が入るあの有名な終楽章でも、ヴァンスカは独特だった。ふつう「喜び」を勇ましく歌い上げるようなところでも、あえて出だしをソフトにはじめてみたり、ふだんは埋没しがちなアルトの合唱の歌声がくっきりと浮かび上がってきたりと、ちょっと聴いたことのないような響きがそこかしこに顔をだして息つくひまを与えない。いつもの「歓喜の歌」が高らかに「喜び」を歌い上げる(ある意味かなり楽天的な)演説のようなものであるとしたら、ヴァンスカのは「祈りの歌」である。そしてそれは、先行きの見えないこの時代に生きるものにとってはより「リアル」と言ってよく、それだけ「現代的」でもある。
あれだけのフィナーレだけに演奏後の客席は盛り上がらないはずもないが、この日の白眉はもしかしたら第三楽章のアダージョだったかもしれない。透明感あふれる音色の弦楽器が精緻に奏でる旋律が、あたかも教会のコラールのようにホールに響く。終楽章の「祈りの歌」は、すでにここから始まっていたのだ。
ちなみにこの日ホールではテレビの収録がおこなわれていて、28日(月)深夜2時4分~の『深夜の音楽会』(日本テレビ系列)で全曲ノーカットで放映されるとのこと。

それにしても、ヴァンスカ、いい! ヒュヴァ!ヒュヴァ! である。なにより「痛快」、全体はコンパクトながら音楽の端々にまで力が漲った、いわば「逆三角形」のマッチョな「第九」だ。とはいえ、繊細なピアニッシモや短いフレーズのなかでのクレッシェンドの多用、アーティキュレーションの自在さなどどこをとっても考え抜かれていてたんなる「筋肉バカ」じゃないところがいい。さすがは思慮深いフィンランド人(←身びいき 笑)である。
とくに今回はじめて、「対向配置」という、指揮台をはさんで両側に第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンを配置した編成で「第九」を聴いたのだが、それがこの曲では驚くほどの威力を発揮していて、これまでなんでこういうシフトをとっていなかったのだろう? とむしろ不思議にすら思えてくるのだった。第一楽章の主題のかけあい、第二楽章の冒頭の受け渡し、第三楽章での音楽の対話と、挙げていったらキリがない。それは、こういう効果を期待してベートーヴェンはこの曲を書いたのだろうと考えさせるに十分な説得力があった(一説によると、ベートーヴェンが生きていたころはこの「対向配置」が一般的だったらしい)。
合唱が入るあの有名な終楽章でも、ヴァンスカは独特だった。ふつう「喜び」を勇ましく歌い上げるようなところでも、あえて出だしをソフトにはじめてみたり、ふだんは埋没しがちなアルトの合唱の歌声がくっきりと浮かび上がってきたりと、ちょっと聴いたことのないような響きがそこかしこに顔をだして息つくひまを与えない。いつもの「歓喜の歌」が高らかに「喜び」を歌い上げる(ある意味かなり楽天的な)演説のようなものであるとしたら、ヴァンスカのは「祈りの歌」である。そしてそれは、先行きの見えないこの時代に生きるものにとってはより「リアル」と言ってよく、それだけ「現代的」でもある。
あれだけのフィナーレだけに演奏後の客席は盛り上がらないはずもないが、この日の白眉はもしかしたら第三楽章のアダージョだったかもしれない。透明感あふれる音色の弦楽器が精緻に奏でる旋律が、あたかも教会のコラールのようにホールに響く。終楽章の「祈りの歌」は、すでにここから始まっていたのだ。
ちなみにこの日ホールではテレビの収録がおこなわれていて、28日(月)深夜2時4分~の『深夜の音楽会』(日本テレビ系列)で全曲ノーカットで放映されるとのこと。
![]() | Beethoven: The Symphonies (2009/10/27) BeethovenJuntunen 商品詳細を見る |

風こそ冷たいものの気持ちよく晴れた午後、家から歩いて15分ほどのところにある大田黒公園へ行った。
ここはもともと音楽評論家の大田黒元雄の屋敷があった場所で、いまはこじんまりとした日本庭園となっているが、庭の片隅には昭和8年に建てられたという大田黒氏のかつての「アトリエ」↑がいまもポツンとたたずんでいる。そしてきょうは、そのアトリエでコンサートがひらかれる。出演は、
尾池亜美(ヴァイオリン)/内田佳宏(チェロ)
のおふたり。ヴァイオリンの尾池さんは、じつはモイが荻窪にあったころからのお客様のひとりである。とはいえ、実演に接するのはきょうが初めて(なにせ、こっちのお休みが火曜日だけなもので)。今回火曜日にコンサートがあるということで、出演が決まると同時にご連絡をいただいていたのだ。
尾池さんが初めてモイに来てくださったのはたしか3年ほど前のことだったと思う。カギを忘れて外出してしまい家に入ることができず、ご家族が戻られるまでの時間つぶしで……、そんな感じだったはずだ。ちょうどヴァイオリンケースを抱えていらしゃったので「ヴァイオリンをやってるんですか?」と尋ねたら、「こんどベートーヴェンの8番のソナタを弾くのでその練習をしていて」といったような話になり、たぶんかなりの腕前の持ち主なのだろうと予想はついたけれどそのまま名前を伺っていなかったので、ぼくの中では
「ヴァイオリンをやっているカギを忘れちゃった女の子」
ということになっていた。その後モイが吉祥寺に移って、ご本人から「あのー、荻窪のときの、カギ忘れちゃったヴァイオリンやってる子ですけど……」という電話をもらって、このままどんどん長くなっていったらえらいこっちゃ! というワケで、晴れてお名前を伺ったのだった。
演奏はいくつかの小品のほか、前半にラヴェルの二重奏曲、後半にコダーイの二重奏曲とピアソラの「ル・グランタンゴ」(アレンジはチェロの内田さん)というかなりヘヴィー(笑)なプログラム。
ヴァイオリンというのは、豆の種類や焙煎の度合い、抽出するひとの技術で味がまったく異なってしまうコーヒーという飲み物とどこか似ている、そうぼくは思っている。ひとくちにヴァイオリンといっても、弾き手の個性でほんとうに聞こえてくるものがちがってしまうからだ。当然、好き嫌いもでやすい。なので、尾池さんのヴァイオリンはどんな響きを聞かせてくれるのだろうかと、きょうも内心ちょっとドキドキしながら出かけたのだった。そして最初の曲を聴いたとたんうれしくなったのは、ぼくにとってとても好きなタイプの音だったからだ。旅先で偶然入った喫茶店で飲んだコーヒーの味がとても好きな味だった……そんな感じ、わかるだろうか?
まず、なにより、強い。音にしっかりと芯が通っていて重心が低い。ぼくは、こういうタイプの音を耳にすると一気にその演奏に引き込まれてしまう。そして、さらに、歌心がある。ぼくは声の通らないひとなので、声のデカいひとに会うとそれだけで「負けた」という気分になってしまうのだけど(笑)、大きな呼吸で気持ちよさそうに歌うヴァイオリンを聞いて、正直「負けた」と思った(どんな勝負なのかまったく意味がわからないが……笑)。
演奏された曲のなかでいちばん印象に残ったのは、ラヴェルの二重奏曲。尾池さんと内田さんのふたりは、この複雑な難曲を前にしても猫背になることなく、堂々と自信をもってアプローチしていてとても痛快だったのだ。つい先だっておこなわれた「日本音楽コンクール」のヴァイオリン部門で、尾池さんは見事「第一位」を、そしてあわせて聴衆の投票によって選ばれる「岩谷賞」を獲得されたわけだけれど、その「理由」がよくわかるような「キャラクターのしっかりある」充実した演奏だった。
もちろんぼくの中では、これを機に
カギを忘れちゃった女の子
改め、
かっこいいヴァイオリンを弾く女の子
に変わったことはいうまでもない。
ーーー
なお、おなじプログラムの公演が
11/14(土) 荻窪・かん芸館(←●詳細はこちらをクリック)
12/20(日) 京都・青山音楽記念館(←●チケットぴあ)
でもあるとのことなので、ご興味のある方はぜひ!
10月になって2度目の台風の影響で、朝から土砂降り。しかも冷たい風まで吹いている。ロジャニコの名曲に「雨の日と月曜日は」という曲があるけれど、まさにそれを地で行くような憂鬱な空模様である。それでもそんななか、わざわざ足を運んでくれるお客様がいるのは本当にありがたいことだ。しかも早じまいだというのに・・・
そんなわけで、なんだか申し訳ない気分になりながら銀座の王子ホールにやってきた。フランスのソプラノ、パトリシア・プティボンを聴くために。
こんど来たときにはぜったい聴きにゆかなきゃと思っていたプティボンの来日が決まり、曜日の確認もせずにとりあえずチケットを押さえたのがたしか、半年くらい前のことだった。コンサートのための早じまいなんて、思えばジョアン・ジルベルト以来である。2、3年に一度くらいなら・・・そんな「甘え」があるのも、事実。スイマセン。
今回のプログラムでは、前半にヘンデル、ハイドン、モーツァルトといったバロックから古典派にかけてのオペラアリアが並んでいる。黒いドレスに身を包んだ赤毛のプティボン、最初の3曲を情感豊かにしっとりと聞かせる。
ついに「お笑い」は封印か? と思いきや、つづくモーツァルトのアリアではいきなり伴奏者とともに
ファッション誌片手に、ド派手なヅラをつけて登場(笑)。
その後も、客席に潜んでいた謎のおっさん(コメディアンだと思ったらじつは立派な方だった)相手にコミカルな演技をしながら歌い踊ったり、ピアノの上に足を投げ出したり、客席に浮き輪やらなにやらを放り投げたりと相変わらずの暴れっぷり。やはりプティボンはプティボンなのだった。
つまり、とにかくプティボンは自分の好きな歌を、あるいはいま自分がいちばん聴き手に届けたい音楽を、歌う。それはたとえば、ぼくのような聴き手にとっては縁遠いハイドンやヘンデルの歌曲、アリアであったり、現代の作曲家による雲をつかむような響きのラブソングであったり、あるいはまた本来はテノール(つまり男声)によって歌われるべきバーンスタインの『キャンディード』からのアリアだったりする(パンフレットによれば「好きなメロディーを自分なりに歌いたい」というのがその理由)。
客も客で、プティボンの歌に新たな「たのしみ」や「発見」を見いだすことを心から楽しんでいる。ステージ(やときには客席内)を歩き回ったり、さまざまな小道具を繰り出したかと思えばコスプレまがいの扮装をしてみたり、そんな彼女のアイデアがたんなる奇抜さやウケ狙いではなくて、聞き慣れない曲を120%楽しむために大いに役立っているということをよく知っているからだ。聴き手は、プティボンという「キャラクター」を通すことで、作曲家の名前や有名な曲だからといった理由を忘れてとてもフレッシュな心持ちで音楽に心を開いている自分に気づく。
音楽を聴くたのしみって、つまりこういうことなんだなあ。
強風で傘があおられそうになるのを必死でこらえながら、帰り道かんがえていたのはそいうことだ。
↓ちょっと前の映像から。フランスの作曲家シャブリエによるオペラ『エトワール(星占い)』からのアリア「くしゃみのクプレ」。
そんなわけで、なんだか申し訳ない気分になりながら銀座の王子ホールにやってきた。フランスのソプラノ、パトリシア・プティボンを聴くために。
こんど来たときにはぜったい聴きにゆかなきゃと思っていたプティボンの来日が決まり、曜日の確認もせずにとりあえずチケットを押さえたのがたしか、半年くらい前のことだった。コンサートのための早じまいなんて、思えばジョアン・ジルベルト以来である。2、3年に一度くらいなら・・・そんな「甘え」があるのも、事実。スイマセン。
今回のプログラムでは、前半にヘンデル、ハイドン、モーツァルトといったバロックから古典派にかけてのオペラアリアが並んでいる。黒いドレスに身を包んだ赤毛のプティボン、最初の3曲を情感豊かにしっとりと聞かせる。
ついに「お笑い」は封印か? と思いきや、つづくモーツァルトのアリアではいきなり伴奏者とともに
ファッション誌片手に、ド派手なヅラをつけて登場(笑)。
その後も、客席に潜んでいた謎のおっさん(コメディアンだと思ったらじつは立派な方だった)相手にコミカルな演技をしながら歌い踊ったり、ピアノの上に足を投げ出したり、客席に浮き輪やらなにやらを放り投げたりと相変わらずの暴れっぷり。やはりプティボンはプティボンなのだった。
つまり、とにかくプティボンは自分の好きな歌を、あるいはいま自分がいちばん聴き手に届けたい音楽を、歌う。それはたとえば、ぼくのような聴き手にとっては縁遠いハイドンやヘンデルの歌曲、アリアであったり、現代の作曲家による雲をつかむような響きのラブソングであったり、あるいはまた本来はテノール(つまり男声)によって歌われるべきバーンスタインの『キャンディード』からのアリアだったりする(パンフレットによれば「好きなメロディーを自分なりに歌いたい」というのがその理由)。
客も客で、プティボンの歌に新たな「たのしみ」や「発見」を見いだすことを心から楽しんでいる。ステージ(やときには客席内)を歩き回ったり、さまざまな小道具を繰り出したかと思えばコスプレまがいの扮装をしてみたり、そんな彼女のアイデアがたんなる奇抜さやウケ狙いではなくて、聞き慣れない曲を120%楽しむために大いに役立っているということをよく知っているからだ。聴き手は、プティボンという「キャラクター」を通すことで、作曲家の名前や有名な曲だからといった理由を忘れてとてもフレッシュな心持ちで音楽に心を開いている自分に気づく。
音楽を聴くたのしみって、つまりこういうことなんだなあ。
強風で傘があおられそうになるのを必死でこらえながら、帰り道かんがえていたのはそいうことだ。
↓ちょっと前の映像から。フランスの作曲家シャブリエによるオペラ『エトワール(星占い)』からのアリア「くしゃみのクプレ」。
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さて
友人の音楽家/ギタリスト、高橋ピエール君よりあたらしいCDが届けられました。
ア・トンノレイユ
フランス語で、「君の耳元で」という意味だとか。クラシックギターの柔和な響きと控えめに奏でられるその他の楽器、そして効果音とが出会い、あたかもフランス映画のサントラのような独特の「波動」を感じることのできる一枚です。
休日の午後、ほどよい音量でこのCDを聴いたなら、きっとジャック・タチの映画を観たあとのようなやさしい気持ちになれることでしょう。
高橋ピエール CD『ア・トンノレイユ』 1,470円
君と僕との色々な角度/針金のワルツ/水玉のワンピース/組曲「les calendriers」より/一度だけ (全5曲入り)
moiにて好評発売中、です。

さて
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ア・トンノレイユ
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休日の午後、ほどよい音量でこのCDを聴いたなら、きっとジャック・タチの映画を観たあとのようなやさしい気持ちになれることでしょう。
高橋ピエール CD『ア・トンノレイユ』 1,470円
君と僕との色々な角度/針金のワルツ/水玉のワンピース/組曲「les calendriers」より/一度だけ (全5曲入り)
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