北欧、フィンランドをこよなく愛するカフェ店主がつづる日々のあれやこれや。

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ジョン・アーヴィングは、忘れたころにやって来る。

というわけで、最近文庫化された『第四の手』を読んでいる。もうじき読了。『ガープの世界』の映画化が話題になったのが高校のときで、その後すぐ『ホテルニューハンプシャー』も映画になって、『熊を放つ』のウィーンにひそかにあこがれ『サイーダーハウスルール』は映画を観たことをちょっと後悔した。ここまでで、二十年近い歳月がたっているわけだ。そして去年、『ウォーターメソッドマン』をひょんなことからTHE YOUNG GROUPのどしだ君からもらい、いま、この『第四の手』を読んでいる。ふだんそんなに小説は読むわけじゃないのに、なぜか二十年以上にわたりずっと読み続けているというのはなんだか不思議な気分である。とりたてて意識したわけではないけれど、この事実からすれば「好きな作家」と断言してもよさそうだ。

『第四の手』も、読みはじめれば当然のように引き込まれている自分がいる。このあいだ見た上海の夢ではないけれど、ジョン・アーヴィングの物語の世界も、どこか青空なのにいつも翳っているような印象がぼくにはあって、その現実と虚構のはざまみたいな「色」が好きだったりするのかもしれない。初めてビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」を聴いたときもおなじ「色」を感じた、ということをいま思い出した。そんな「色」のなかで展開する、「北をめざして」という章がいい。静謐で、なにか重力から解放されてゆく感じ。ここでの主人公パトリックは、そのヘタレ加減で『ゴダールのマリア』のジョゼフにも似ている。ちなみに、『第三の~』じゃなくて『第四の手』となっている理由もここで明らかになるので、まだ読み終わっていないけれどこの小説のハイライトなのかも。

気づけば感想文にもなってないし、ひたすらとりとめのない文章になっちゃってることを・・・反省。でも、ぜひ読んだひとひとりひとりに、その感想を教えてもらいたい気分だ。教えて下さい、今度ぜひ。

ーーー

ところで、きょうから八重洲の千疋屋ギャラリー森麗子さんの展示がはじまったことをフィン語クラスのnonoさんに教えてもらいました。nonoさんは、森さんのアトリエに最近通い始めたとのこと。今週いっぱいと会期が短いのだけど、ちょっと見逃せないと思っています。向かいのブリヂストン美術館で開催中の「安井曾太郎の肖像画」展も気になっているので、いっそこの際ハシゴしようかな、と。

こんなふうにつらつらと明日の予定をかんがえたりしているうち、どうやらそろそろ閉店の時間です。

第四の手〈上〉 (新潮文庫)第四の手〈上〉 (新潮文庫)
(2009/11/28)
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第四の手〈下〉 (新潮文庫)第四の手〈下〉 (新潮文庫)
(2009/11/28)
ジョン アーヴィング

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作家、池波正太郎がその晩年、八年間にわたり「銀座百点」に連載していた日記をまとめた『池波正太郎の銀座日記(全)』を読んでいる。いまでいえば、さしずめ池波正太郎ブログといった感じ。食べたものと観た映画の話でほぼ7割、残りの3割は芝居の話と友人、知人の訃報とで占めている。途中、しきりに「飲めなくなった」「食が細くなった」というぼやきとも嘆きともつかない独白がふえてくるあたりから、「『老い』と向きあうひとりの男の日常」という「通奏低音」が姿をあらわし、通して読んでゆくとおなじ本にもかかわらず明らかにその肌触りが変わってしまっていることに気く。本人は「老い」をテーマに書こうと決めているわけではなくただ淡々とその日常を綴っているにすぎないのだが、それだけにむしろ読む側としてはチクチクとした「痛み」を感じないわけにはいかない。ぼくのように、ほとんど酒を飲めないに等しい人間にとっては、以前ほどに「飲めなくなる」ことがそこまで嘆かわしいことなのかまったく理解はできないのだが、ひとはそんな思いがけない現実(よくわからないが、たとえば「トイレが近くなった」とか「たらばガニを食べるのが面倒臭い」とか、あるいはまた「テレビで松岡修造を見ると疲れる」とか)によってみずからの「老い」を突きつけられるものなのだろう。映画についてはまさに雑食。試写状の届いたものはとりあえずなんでも、しかもそれ相応に楽しんでしまうというひとだったようでそのぶん「作家による映画評」といったものを期待すると肩すかしを喰うが、ぼくの場合はこの日記が書かれたころがちょうど学生時代にあたっていて、映画館にいちばん足を運んでいたころだったせいか登場する映画のひとつひとつがなつかしく、意外なところでおもしろく読むことができたのだった。

池波正太郎の銀座日記(全) (新潮文庫)池波正太郎の銀座日記(全) (新潮文庫)
(1991/03)
池波 正太郎

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正月なのに、味がしない。初詣にすら行ってない(泣)。

去年最後に読んだ本は吉本隆明の『ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ』

ひきこもること、イコール「分断されない、ひとまとまりの時間をもつこと」と定義した上で、そうした「時間」が「自分が発して自分自身に価値をもたらすような言葉。感覚を刺激するのではなく、内臓に響いてくるような言葉」(それを彼は他人とコミュニュケートするための言葉ではない「第二の言語」と呼んでいる)をもたらすことに着目し、じっくりと自分にとっての「価値」を育て熟成させるためには「それもいいじゃないか」とみずからの「ひきこもり体験」を引き合いに出しながら語っている。

また、人は何ものかになるために「分断されない、ひとまとまりの時間」を必要としていると説く吉本は、「仕事」についてこんなアドバイスもしている。

ひきこもっていてもいいし、アルバイトをやりながらでも何でもいいから、気がついた時から、興味のあることに関して「手を動かす」ということをやっておくのが大事だ、と。そしてそれを10年続ける。「のんびりやろうが、普通にやろうが、急いてやろうが、とにかく10年という持続性があれば、かならず職業として成立」すると。

さらに、たとえ身近に「頭のいい人」が現れたとしても競り合うことはないと言う。なぜなら、なにかにつけて「自分を鋭く狭めてゆくところのある」頭のいい人は長い目でみればそんなにいいことでもないのだから。それよりはむしろ、めざすべきは「少しゆるんでいて、いい加減なところがあって、でも持続力だけはある」熟練した職業人なのである。

ところで、夜中眠れなくなってなんとなくテレビをつけていたら、指揮者朝比奈隆の「生誕100周年」を記念して制作されたドキュメンタリーが放送されていた。

93歳で亡くなる直前まで頻繁に指揮台に上がっていた朝比奈だが、晩年の彼のコンサートはほんとうに独特なものだった。華やかさとも巧さとも無縁なのだが、その音楽の巨大さ、生々しさときたら他のどんな指揮者とも比較にならないほどのインパクトがあったのだ。

ちなみに朝比奈隆の指揮者としてのキャリアは、なんと、65年!べつに朝比奈を「ひきこもり」というわけじゃないけれど、長年にわたる「持続力」があの音楽に満ち満ちた説得力をあたえたと考えるのはけっして間違ってはいないように思える。

ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)
(2006/12/10)
吉本 隆明

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深沢七郎の『盆栽老人とその周辺』を読む。

畑仕事が好きで、東京からわざわざ埼玉県のとある村へと移住した「私」。その「私」が、土地のひとびと(=農家のひとびと)から「盆栽」をすすめられたり、売りつけられそうになったり、はたまた強引に「預けられたり」しながら、そのたび断ったり、逃げ回ったり、うっかり「預かって」しまったりするお話である。

なぜ盆栽なのか?というと、このあたりはどうやら盆栽好きのあいだではよく知られた盆栽が盛んな土地であるらしく、農家のひとびともみな盆栽を趣味にしているうえ、なかには「副業」のようにしているひともいるらしい。とはいえ、みんながみんな盆栽で儲けているということはもちろんなくて、「名人」と呼ばれひとびとの尊敬を一身に受けるカリスマ的存在もいれば、下手くそでひたすら散財ばかりしているようなひともいる。この村にはつまり「盆栽」をめぐる堅固なヒエラルキーがどっかりとあるのであって、こうしたヒエラルキーに生きる村のひとびとにとって、東京からやってきた盆栽音痴の「私」はいわば最下層民(=いいカモ)なのだった。

途中まで読み進んではたと気づいたのだが、この小説はある意味「SF」だ。

選挙運動で対立するふたつの陣営が、優柔不断な対応ではぐらかす「私」をまえにどんどんエスカレートして買収合戦のような様相を呈したり、自動車で村に迷いこんできたよその土地の人間に農家のおばさんがすまして嘘をつく現場を目撃したり、あるいはまた「他人の不幸」を表面では同情するようなそぶりをみせながら、裏では嬉々としてうわさしあっていたり、そのたび「私」は困惑し途方に暮れてしまうのだ。ここにあるのは、「村」という小惑星に不時着した「私」が体験するディスコミュニケーションの物語。

それでも「私」はそんな村人たちに対して不平や不満を言うわけでも、ましてや批判をくりひろげるわけでもなく、ただ淡々とその状況を受け入れ翻弄されているばかりである。深沢七郎は「あとがき」に書いている。

農民の持っている根強い根性は、虐げられた反動で磨かれたふてぶてしさーこれを、たくましさ、とか、凄まじさとでも言っても、もう少しちがう、商人のずる賢さともちがうー盲滅法的なふてぶてしさは見事というか、スバラシイちから強さだと思う。

私はこんな底力のある無鉄砲なエゴイズムーかくさないエゴイズム、すぐに見破られてしまうエゴイズムこそ素晴らしいではないかと思う。


おいおい、ほめちゃってるよ。

ワケがわからないまま唐突に終わってしまうこの小説だが、そのワケわからなさの中にも一分の「晴れやかさ」が感じとれるとしたら、それはたぶん「私」が、このエイリアンたちを前に潔いまでにあっけらかんと「敗北」を認めてしまっているせいかもしれない。《不時着者の作法》をここまで見事に体現できる「私」もまた、言い方はよくないけれどゴキブリなみにしたたかで、強靭な生命力をもっているようにみえる。
book_on_coffee
講談社から昭和六十一年(って何年だっけ?)にでた『The Book On Coffee コーヒー雑学事典』。タイトルどおり、コーヒーにかんするありとあらゆる小ネタが満載の一冊だ。とはいえ、全体に歯の浮くような調子はまさに八十年代のそれ。

たとえば、「いま、いちばん行きたいコーヒショップ」というコラム。「大学二年の菅原佳子サン」のご意見はこんな感じ。「はじめてのデートで、あそこに入ろうって、まるで決めてきたかのように指差したお店が、趣味の悪い店。彼とつきあっていく気がなくなった」。コワいですね~、八十年代の男子はコーヒーショップを選ぶのも命がけだったのですよ。というよりは、女子がなんにも主張しなくても男子がお膳立てを整えて「お姫様気分」(この「気分」っていうのがいちばん大切)にひたらせてあげるというのが八十年代的恋愛のツボだったわけで、それを巧みにゲーム化してみせたのが一連のホイチョイ・プロダクションの仕事だったのだ。そういう意味でゆくと、主張のはっきりした女子と従順な男子という組み合わせが目につく最近の若いカップルをみるかぎり、いまの女子のほうがはるかに、実際に、「お姫様」だと思う。

あ、本題から逸れた!

それはともかく、この本のすごさのひとつは参加しているイラストレーターの顔ぶれにある。表紙は「クシー君」で知られる鴨沢祐仁で、ほかにも内田春菊蛭子能収みうらじゅんスージィ甘金岡崎京子ナンシー関など総勢十四名!たった一冊の本にこれだけのイラストレーターが必要なの?と思わず尋ねたくなうようなバブリーさ。しかも巻頭には「コーヒーまで7時間」と題されたわたせせいぞうによるハートカクテルな書き下ろしコミックまで。開いた口がふさがりません。

そういえばわりと最近の話、電車で向かいに座っていた女子高生ふたりの会話。携帯の待ち受け画像でも探しているのだろうか、ひとりが携帯の画面を見ながらもうひとりに話しかける。

「ねぇ、わたせせいぞうって誰?」
「知らない。なんか政治家っぽくね?」

もはや本題への復帰不能・・・
クレタ人は嘘つきだ、とあるクレタ人が言った。

これは、学生のころ論理学の授業で教わった「自己言及のパラドックス」というヤツである。で、本当のところクレタ人は嘘つきなの?それともそうじゃないの?という話。で、なんでこんなことを思い出したかというと佐藤春夫の小説「美しき町」を読んだからである。

ボヘミアン気取りの貧乏画家のもとに、ある日「テオドル・ブレンタノ」という聞き慣れない名前の男から「或る不思議な、そうして最も愉快な企て」のために力を貸してほしいとの声がかかる。ほどなく、その男の正体はアメリカに帰化した旧友であることがわかるのだが、彼は父が遺した財産で隅田川の中州に「美しい町」を築きたいと言うのだった。そしてさらにもうひとり、老建築技師がその輪に加わり築地の高級ホテルの一室でくる日もくる日も「美しき町」を実現するための作業が着々と進められるのだ。そして三年の月日が経ち、いよいよ「美しき町」の実現ももうすぐ目の前というとき・・・。

以下、ネタバレあり。ま、誰でも途中で予測はつくと思うのであまり支障はないかもしれないけれど、一応。

読み終えて、物語に、もしも正しい答えというのがあるとしたら、ぼくにはこの小説の「正しい答え」がさっぱりわからないのだ。「私のおやじも山師であったが、山師の息子がまた山師なのだ」と告白することになる旧友の、だがどこまでが本当で、どこからが嘘なのか、その目線をどのあたりに据えるかによって、この物語の「答え」は大きく変わってくるように思われる。彼の言動をみれば、それが必ずしも「愉快犯」の行いでないことは察しがつく。本気でやろうと思っていたことが、ついスケールがデカくなりすぎて収拾がつかなくなったということもあるかもしれないし、金銭的な問題よりも、むしろ理想の協力者(共犯者?)を得たことで十分満足し、赤ん坊がオモチャに飽きるみたいにこの企てそのものへの興味がすっかり失せてしまったということだってないとも言い切れない。もちろんそこに書かれているままを信じて、じつはハナっからそんな大金なんてなかったのだ、と受け取ったってかまわない。ただ作者(佐藤春夫)が、親友の友人である画家E氏(=ボヘミアンの貧乏画家)による「証言」をまとめたというスタイルで書かれたこの小説では、そのあたりのことはなにも明かしてはくれない。むしろ幾重にもフィルターがかけられ、あえて核心に迫らせないかのように。

それでも、この「美しき町」の読後感はやけにさわやかだ。この物語の登場人物である画家のE氏、それに老建築技師と同じように。「美しき町」を読み、その町にすこしでも惹かれる部分を感じた者はみな、知らないうちに自分の心のなかに「美しき町」の存在を見るからなのかもしれない。

追記:そういえば先日話題にした画家の茂田井武は学生のころ、友人の家に下宿していた佐藤春夫の部屋にちょくちょく出入りしていたそうである。そして、そこで稲垣足穂に紹介されたりしたらしい。こういう、「わたがし」みたいに人が人を呼ぶ不思議な求心力はとても神秘的だ。

美しき町・西班牙犬の家 他六篇 (岩波文庫)美しき町・西班牙犬の家 他六篇 (岩波文庫)
(1992/08)
佐藤 春夫

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