北欧、フィンランドをこよなく愛するカフェ店主がつづる日々のあれやこれや。
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遅まきながら、ずっと気になっていた映画「かもめ食堂」を観てきた。
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公開から一ヶ月あまり、その間何人かのひとから「moiみたいだったよ」といった感想をいただいた。「実写版moiみたいでしたよ、いろいろな意味で」とは、建築家の関本サン。来店した小学生の女の子からは「ここ『かもめ食堂』みたいだね」と言われ、先日は「『かもめ食堂』を観たらこちらのことを思い出して」というある新聞の論説委員の方からお電話をいただきコメントを求められたりもした(10日付の朝日新聞夕刊コラム「窓」欄をごらんください)。これでは気にならないワケがない。

どうだろう?似てるのかなぁ?そんなふうに思いながら「かもめ食堂」を観ていてひとつの共通点に気がついた。たぶん、それは主人公サチエの《世間》に対する立ち位置のとり方とぼくのそれとのあいだの「共通点」といえるかもしれない。

日本では、いま、「勝ち組」だとか「負け組」だとか、あるいは「格差社会」だとかと、巷はなにかとかまびすしい。じゃあ一体じぶんはどうなんだ?とふりかえったところで、正直あまりピンとこない。「勝っている」と感じないのは当然としても、「負けている」のかといえば、かならずしもそうとも感じていない。それは、ぼくがそもそも「世間」でいわれているような「勝負」にハナっから参加しているつもりがないせいにちがいない。

サチエもまた、「勝ち」だとか「負け」だとか、そんなことには一切無頓着にみえる。「好きなことをおやりになっていいですねぇ」という問いに、サチエはこう返す。「いいえ、やりたくないことをやらないだけですよ」。「やりたいことやっているんだから言い訳はできない」なんて考えて、挙げ句のはてに病気になんかなっているぼくとしては、とても真似できない、あっぱれなまでの力の抜けようである。

ところで最近よくかんがえるのだが、「moi」を支えてきたのはたぶん、「勝負にのこる」という《価値観》ではなかったか、と。「勝負にのこる」、つまり「すもう」の「ノコッタ、ノコッタ」というあれである。それは、形勢不利だろうが息も絶え絶えだろうが、とにかくつま先だけでも「土俵」にのこっていさえすればいいじゃないかというスタンスでもある。世間には、勝ち急ぐあまり勢いあまって土に手をつけてしまう力士だっているのだ。けれども、「土俵」にのこっているうちは(少なくとも)負けではない、だってそういうもんでしょう?じゃあ、もしも力尽きたら・・・?

「そのときは、やめちゃえばいい」(byサチエ)

それだけのこと。

PS.ちなみに「かもめ食堂占い」の結果は、「おにぎり(おかか)」でした・・・
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