北欧、フィンランドをこよなく愛するカフェ店主がつづる日々のあれやこれや。
「郊外の美の悦楽は、慎重に、あたかも『煎じたように』消化され、散歩者自身が長い時間をかけて見出すものなのである」。(エッセイ「給水塔へ」から)

高速道路の高架付近や崩れかけた工場跡、丘の中腹を走る高圧線の鉄塔の下に小さな家々が「埋もれるようにたっている」パリ郊外の《魅力的》な眺めについて、堀江敏幸はそう述べる。「パリ郊外」についてはなにも知らなくとも、《散歩者のまなざし》をもって「都市計画における美醜の明確な区別」とはまったく次元を異にする「郊外の美」の存在を説くかれの意見にはまったく同感である。

個人的には、都市計画における「ランドスケープ」という概念には、なにやら胡散臭さをかんじずにはいられない。それは、人間が、人間の価値判断にもとづいて自然をコントロールしようとすることへの違和感といってもいい。自然を壊すことでおこなわれる「都市計画」が、同時に「ランドスケープ」という名前のもと自然を作り出そうとするのもおかしな話である。

けれども、おなじ「景観」について語っていても、じつは「都市計画」におけるそれと「郊外」におけるそれとではそのありようがまったく異なるのだと、堀江敏幸はそう言っているのである(たぶん)。都市計画においては、「景観」とは「発見させる」ものである。それに対して「郊外」にあっては、「景観」はそれに触れるひとが時間をかけて、つまり《散歩者のまなざし》をもって「発見する」ものにほかならない。

「人間の直裁なドラマではなく、湿った石塀や草いきれのする丘、泥濘のつづく小道にひそむ人間の息づかいを捜し求めるささやかな旅」。

「ひなびた独特の雰囲気」を醸しだす郊外に「美」を見出す《散歩者》にとって、「景観」とはじっさいにはそのひとのなかにあるもの、なのかもしれない。
郊外へ 郊外へ
堀江 敏幸 (2000/07)
白水社

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