小学生のころ、将来の夢はサラリーマンになることだった。
ふつうだったら、男の子はスポーツ選手や宇宙飛行士、女の子は保母さんやケーキ屋さんといったところをあげるものなのだろうが、どうしたわけか「サラリーマン」。3才や4才の子供ならともかく、小学生ともなればある程度「ものの道理」だってわかってくる。とりたててスポーツや学業に秀でているわけでもないじぶんが、スポーツ選手や宇宙飛行士、ましてや総理大臣なんてなれるはずもなく、しょせん無理ならいっそのこと「水戸黄門」くらい言っておこうか、そんなノリだったように思う。ただし「水戸黄門」が「将来の夢」の対象になるかどうかについては意見のわかれるところだろうが。
ずいぶんニヒルな小学生にきこえるだろうか?けっしてそんなことはない。ふだんは団地のエレベーターホールでスライディングに失敗し気絶のあげく救急車で病院に運ばれるような、そんないたってふつうの小学生であったのだ。ただ、そんな「ふつうの小学生」であったぼくが将来の夢として「サラリーマン」をあげたのには、やはり当時のさまざまな環境といったものが影響していたにちがいない。じっさい、じぶんにとってもっとも身近な「男」である父親をふくめ、団地に暮らす大人の「男」はそのほとんどが「サラリーマン」であった。そのため、和菓子職人のせがれがごく当然のことのように和菓子職人になるように、じぶんもまたごく当たり前のようにサラリーマンになるのだろうとかんがえていたのだ。むしろそれ以外には思いつかなかった、といったほうが正しいかもしれない。
それでも、ぼくはぼくなりにそこに「夢」をみてもいた。ぼくがめざしていたのはずばりカッコいいサラリーマン。しかも、小学生のぼくがかんがえるカッコいいサラリーマンとは、髪を七三にわけてスーツをビシッと着こなし丸の内あたりを闊歩しているサラリーマンのことなのだからすこしばかり背伸びすれば手に届きそうな、ずいぶんとハードルの低い「夢」ではあった。
それから三十年あまり。気がつけば、どうしたわけか店のカウンターで日々コーヒーを淹れているじぶんがいる。
その間、「サラリーマン」も体験してはいるけれど、それは小学生のぼくが思い描いていたような「夢」とはずいぶんとかけはなれた姿のサラリーマンであった。かといって、夢破れたといった挫折感があるわけでもなく、いってみれば、あらためてその程度のスケールの「夢」だったんだなぁとくすぐったい思いが胸の奥をかすめるくらいのものである。もしも、いま突然ぼくの目の前に「神様」が現れて「お前の子供のころの『夢』をかなえてしんぜよう」などと口にしたとしたら、さてどうしたものか、すっかり困惑したあげく丁重にお断りすることだろう。せめて、「七三」だけは勘弁してもらえないものだろうか。
どちらかといえば、壮大な「夢」にむかって邁進するよりは、むしろ生きている途上にぽつぽつと現れる分岐器(ポイント)のような地点で、そのつど右に進んだり左を選んだりしながらそのときどきの風景を眺めているほうがどうも性に合うような、そういう気がしている。
ふつうだったら、男の子はスポーツ選手や宇宙飛行士、女の子は保母さんやケーキ屋さんといったところをあげるものなのだろうが、どうしたわけか「サラリーマン」。3才や4才の子供ならともかく、小学生ともなればある程度「ものの道理」だってわかってくる。とりたててスポーツや学業に秀でているわけでもないじぶんが、スポーツ選手や宇宙飛行士、ましてや総理大臣なんてなれるはずもなく、しょせん無理ならいっそのこと「水戸黄門」くらい言っておこうか、そんなノリだったように思う。ただし「水戸黄門」が「将来の夢」の対象になるかどうかについては意見のわかれるところだろうが。
ずいぶんニヒルな小学生にきこえるだろうか?けっしてそんなことはない。ふだんは団地のエレベーターホールでスライディングに失敗し気絶のあげく救急車で病院に運ばれるような、そんないたってふつうの小学生であったのだ。ただ、そんな「ふつうの小学生」であったぼくが将来の夢として「サラリーマン」をあげたのには、やはり当時のさまざまな環境といったものが影響していたにちがいない。じっさい、じぶんにとってもっとも身近な「男」である父親をふくめ、団地に暮らす大人の「男」はそのほとんどが「サラリーマン」であった。そのため、和菓子職人のせがれがごく当然のことのように和菓子職人になるように、じぶんもまたごく当たり前のようにサラリーマンになるのだろうとかんがえていたのだ。むしろそれ以外には思いつかなかった、といったほうが正しいかもしれない。
それでも、ぼくはぼくなりにそこに「夢」をみてもいた。ぼくがめざしていたのはずばりカッコいいサラリーマン。しかも、小学生のぼくがかんがえるカッコいいサラリーマンとは、髪を七三にわけてスーツをビシッと着こなし丸の内あたりを闊歩しているサラリーマンのことなのだからすこしばかり背伸びすれば手に届きそうな、ずいぶんとハードルの低い「夢」ではあった。
それから三十年あまり。気がつけば、どうしたわけか店のカウンターで日々コーヒーを淹れているじぶんがいる。
その間、「サラリーマン」も体験してはいるけれど、それは小学生のぼくが思い描いていたような「夢」とはずいぶんとかけはなれた姿のサラリーマンであった。かといって、夢破れたといった挫折感があるわけでもなく、いってみれば、あらためてその程度のスケールの「夢」だったんだなぁとくすぐったい思いが胸の奥をかすめるくらいのものである。もしも、いま突然ぼくの目の前に「神様」が現れて「お前の子供のころの『夢』をかなえてしんぜよう」などと口にしたとしたら、さてどうしたものか、すっかり困惑したあげく丁重にお断りすることだろう。せめて、「七三」だけは勘弁してもらえないものだろうか。
どちらかといえば、壮大な「夢」にむかって邁進するよりは、むしろ生きている途上にぽつぽつと現れる分岐器(ポイント)のような地点で、そのつど右に進んだり左を選んだりしながらそのときどきの風景を眺めているほうがどうも性に合うような、そういう気がしている。
