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北欧、フィンランドをこよなく愛するカフェ店主がつづる日々のあれやこれや。
ひとにはさまざまな《過去》があるものだ。たとえば、かつてmoiの店主が「少年ファイターズ」の会員、しかもその「第一期生」だったりとか。

ことさら好きでもない「日本ハムファイターズ」のファンクラブに入ったのは、たしか小学一年生のとき。「後楽園球場」での試合終了後、会員を募集しているのを目にした父親が、ほら入れ、入れ、とぼくをうながし入会させてしまったのである。かといって父親が日ハムファンだったかといえばまったくそんなことはなく、ただ誕生したばかりのチームのファンクラブにじぶんの息子を入れてみたかっただけではないか、と睨んでいる。ようは「あたらしもの好き」なのだ。

そんな父はたいへんにおっちょこちょいなところがあって、「少年ファイターズ」のイベントとして開催されたサイン会では恥ずかしい思いもした。それは若手選手がこどもたちにベンチでサインをしてくれるものだったのだが、父はそのなかに一人の選手をみつけ、「あれは大下選手にちがいない」と言うのだった。だがぼくには、絶対にちがうという確信があった。大下選手といえば当時のスター選手のひとり、ところがその日参加していた選手たちはといえば、こう言っては申し訳ないが若手の無名選手ばかり、どうかんがえたってそこにあの大下選手がいるはずはなかった。だいいち背番号がちがった。にもかかわらず父はその選手に近づき、大きな声で「大下選手サインお願いします」とぼくの『ベーブルース物語』をさしだした。すべての点でまちがってはいたが、それでもその選手はニヤニヤしながらサインをしてくれた。サインははっきりとこう読み取れた。「鵜飼」。その日から、ぼくは鵜飼投手のファンになった。

ところで、ぼくが小学生のころといえば、とにかく野球というスポーツが絶対的な人気を誇っていた時代、当然のように、小学生の男子はみなひいきチームの野球帽をかぶっていた。断トツで人気があったのはやはりジャイアンツ、ほかには阪神や中日がちらほらいるといった具合で、パリーグの、しかも日本ハムの帽子などかぶっている子供は全校じゅう見渡してもほとんどみつからないといったありさまであった。しかも「少年ファイターズ」の特典として、野球帽は市販のものとは異なるツバの広い、ロゴマークが刺繍されたプロ仕様のものだったのでよけいに目立った。放課後の草野球では、太り気味の体型に日ハムの帽子をかぶり、豪快なフォームからこどもに似つかわしくない「重い」球を投げ込み三振を奪い取ったものである。いわゆる「ちびっこ江夏」時代である。ただし、その後豪快すぎるフォームがたたって肩を壊しやむなくアンダースローに転向したため、「ちびっこ江夏」の名前は返上したが。

優勝とは無縁のファイターズの試合は、おなじ後楽園球場をホームグラウンドとしていたジャイアンツとは対照的にいつもガラガラだった。「少年ファイターズ」には外野席への入場がフリーパスという特典もあったので、けっこう足しげく球場へ通った。高学年になると、つられて入会してしまった「少年ファイターズ」の同級生と連れ立って球場へ行くようにもなった。「探検」と称して球場内をほっつき歩き、「ネット裏」に忍び込んだり「太平洋クラブライオンズ(現在の『西武ライオンズ』の前進)」ファンのガラの悪さにビビったり・・・ファイターズの応援にゆくというよりは、気づけばいつもファイターズが試合をやっている「遊び場」に行くという感覚になっていた。

こうしてなんとなく、ずるずるとぼくはファイターズのファンをやっている。積極的に声援をおくるというほどでもないが、なにかのはずみで野球の話がでれば迷わず「ファイターズファン」だと公言する。なんといっても、そう口にしたとたんその場の空気がいっぺんになごむところが気に入っている。周囲に敵をつくらない、そういう戦闘集団なのだ、ファイターズは。「万年Bクラス」のイメージながら身売りもせず、よって20年以上もおなじ「日本ハムファイターズ」という名前で存続しつづけている、そういうチームはパリーグで唯一「日ハム」だけである。そういう「しぶとさ」もまた「日ハムらしさ」であるかもしれない。

さて、そのファイターズが本拠地を東京から北海道へと移し、あの新庄が入団し、ついには25年ぶりに「リーグ優勝」までしてしまったのはご存じのとおり。それでもあいかわらず、やっぱりファイターズはあのファイターズのままで、そこはかとなくゆるさをにじませたチームであるところがぼくにはなんともうれしかったりするのだ。
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