北欧、フィンランドをこよなく愛するカフェ店主がつづる日々のあれやこれや。
On the sunnyside of the street(明るい表通りで)。ゴットフリート・フィンガーの音楽から連想するのは、なぜかよく知られるジャズナンバーのタイトル。
GF

フィンガーという作曲家のことはほとんどといってよいほどなにも知らないのだが、「モラヴィア(現在のチェコ共和国の一部)出身でおもにイギリスで活躍したバロック期の作曲家」なのだそうだ。バロック期の音楽家たちはみな「芸術家」であると同時に、場合によってはそれ以上に、王侯貴族なり教会なり、なにがしかの「クライアント」に仕えて仕事をしていた「職人」だった。当然、その作品には「クライアントの趣味」が強く反映される。それはたとえば王侯貴族が集うパーティーミュージックであったり、宗教的な行事のための禁欲的な音楽であったり、と。フィンガーというひともまたイングランドの王様ジェームズ2世に仕えた、その意味では「職人」である。

ところがどうしたわけか、はじめてゴットフリート・フィンガーの音楽を耳にした瞬間、ぼくはそこにほかのバロック期の音楽家たちの作品とは異なる「なにか」を感じた。より快活で開放的、まさににぎやかな「明るい表通り」を闊歩しているような感覚。そう、バロック期の音楽家でありながら、どこかフィンガーのつくる曲には「市井の人々のための音楽」といった趣きがあるのだ。そしてもしその「感覚」が間違っていないとするなら、それはたぶんフィンガーがモラヴィアの出身ということと関係があるにちがいない。

世界史はぜんぜん得意ではないけれど、フィンガーの生まれたモラヴィアと接する「ボヘミア」には16世紀のおわりから17世紀のはじめにかけてあのルドルフ2世が君臨していた。アルチンボルドのパトロンで錬金術にご執心、そのうえプラハに世界中の「変な生き物」をあつめた「動物園」までつくってしまった、あのとてもクレイジーな王様。フィンガーの生まれる50年ほど前のボヘミア一帯はたいへんなことになっていたのである。

そういえば、むかし仕事でモーツァルトについてのトークショーを企画したとき、話をしていただいた高山宏さんと打ち合わせの席上盛り上がったのも、もっぱらプラハを中心とした当時のボヘミア一帯の「すごさ」についてだった。

プラハでは自分の音楽が大ヒットしていて、街角で耳にする口笛までもが自分の曲だ

といった内容の手紙を、モーツァルトは興奮気味に書いている。クライアントとの不仲によりほとんど「宮廷音楽家」としては「終わって」いたモーツァルトも、プラハでは「ポップスター」として受け入れられていたというわけだ。「ルドルフ2世のプラハ」からはすでに150年以上も経ってはいたが、そのころに培われた自由であたらしもの好きでおおらかな人々の心性はそこを「王侯貴族のヨーロッパ」とは次元の異なるエアポケットのような場所に変えてしまったのかもしれない。まるで「錬金術」みたいに。

地図をみると、ゴットフリート・フィンガーの生地オロモウツは、ちょうどウィーンとプラハというふたつの「芸術の都」を底辺にもつ正三角形の「頂点」に位置している。モラヴィアのもっとも重要な都市として、かつてはウィーンやプラハとのさまざまな交流があったとしても不思議はない。フィンガーの音楽は、そんなこの一帯がなんだかとてもすごいことになってしまっていた時代の「残り香」をたっぷりふくんだ、とても人間臭い音楽という気がしてならない。

「いま一文無しだとしても いずれロックフェラーみたいにリッチになるさ だって明るい表通りでは 足下にあるのは黄金色の埃なんだから」

1920年代のニューヨーク、高層ビルがニョキニョキと建つグレート・ギャツビーのニューヨークとゴットフリート・フィンガーが生まれ育ったバロック期のボヘミア一帯は、あるいはどこか似ていたのだろうか?