アリタマサフミさんの新シリーズ「Izumonesia」をみてからというもの、どうも「帰省」とか「里帰り」といった単語に敏感に反応してしまうじぶんが、いる。
アリタさんが、ご自身の故郷である「出雲」で目にした光景やその土地で得たインスピレーションを日本古来の「文様」を意識しつつ図案化したそれら作品群には、どこかその土地で生まれ育った人間にしか表現できない土の匂いが薫っているような気がしたからだ。そしてそんな「匂い」は、ぼくに「故郷」に対する強烈なあこがれのような感情を抱かせる。というのも、東京に生まれ、その後もほとんどの時間を東京ですごしてきたぼくにはいま、「帰省」したり「里帰り」したりする土地としての「故郷」がないからだ。そのうえ、子供のころには引っ越しが多かったせいか「地元」といえるような町すらない。だからたとえ「東京」にいても、そこがじぶんにとっての「故郷」であるという実感はいっこうに湧かないのだ。おまけに追い討ちをかけるかのように、うちの奥さんも東京生まれの東京育ち。もはや絶望的な状況だ。たとえば「東京」を離れれば事態は変わるのだろうか?
故郷へかえる。じぶんが拠って立つ場所へかえるという感覚は、いったいどんなものなのだろう。たとえば、モノがあるべき場所にきちんと収まっているような、そんな感覚だろうか。アリタさんの「Izumonesia」からは、そこから出発し、いずれまたそこに帰ってくる、そんな意志的な「矢印」をみてとることができたように思う。それゆえ、そうした明確な「矢印」をもつことなく日々をすごしているぼくにとって、それはなんともいえずキッパリと眩しい眺めでもあった。
すくなくとも、「東京ばな奈」を買って乗車率130%の新幹線にのってみたり(途中おみやげが足りないことに気づいて、「ま、いっか」とか言いつつ車内販売で「雷おこし」を買ったりする)、あるいは「小仏トンネル」付近で渋滞60kmに巻き込まれてみたり(ところで「小仏トンネル」ってどこ?)、さらにようやく辿りついた東京駅や羽田空港でNHKの取材班からマイクを向けられたりしたところで(「疲れました・・・うちに帰って早く寝たいっす」)、「帰省」や「里帰り」の本質はいっこうに姿をあらわしはしないだろう。
しかしそんなにまでしてなお、ひとを「帰省」や「里帰り」へとかりたてる「故郷」の引力は、やはりよぽど強力なのにちがいない。「故郷」への思いは、ひたすら空振りをくりかえしながら募るばかりだ。
アリタさんが、ご自身の故郷である「出雲」で目にした光景やその土地で得たインスピレーションを日本古来の「文様」を意識しつつ図案化したそれら作品群には、どこかその土地で生まれ育った人間にしか表現できない土の匂いが薫っているような気がしたからだ。そしてそんな「匂い」は、ぼくに「故郷」に対する強烈なあこがれのような感情を抱かせる。というのも、東京に生まれ、その後もほとんどの時間を東京ですごしてきたぼくにはいま、「帰省」したり「里帰り」したりする土地としての「故郷」がないからだ。そのうえ、子供のころには引っ越しが多かったせいか「地元」といえるような町すらない。だからたとえ「東京」にいても、そこがじぶんにとっての「故郷」であるという実感はいっこうに湧かないのだ。おまけに追い討ちをかけるかのように、うちの奥さんも東京生まれの東京育ち。もはや絶望的な状況だ。たとえば「東京」を離れれば事態は変わるのだろうか?
故郷へかえる。じぶんが拠って立つ場所へかえるという感覚は、いったいどんなものなのだろう。たとえば、モノがあるべき場所にきちんと収まっているような、そんな感覚だろうか。アリタさんの「Izumonesia」からは、そこから出発し、いずれまたそこに帰ってくる、そんな意志的な「矢印」をみてとることができたように思う。それゆえ、そうした明確な「矢印」をもつことなく日々をすごしているぼくにとって、それはなんともいえずキッパリと眩しい眺めでもあった。
すくなくとも、「東京ばな奈」を買って乗車率130%の新幹線にのってみたり(途中おみやげが足りないことに気づいて、「ま、いっか」とか言いつつ車内販売で「雷おこし」を買ったりする)、あるいは「小仏トンネル」付近で渋滞60kmに巻き込まれてみたり(ところで「小仏トンネル」ってどこ?)、さらにようやく辿りついた東京駅や羽田空港でNHKの取材班からマイクを向けられたりしたところで(「疲れました・・・うちに帰って早く寝たいっす」)、「帰省」や「里帰り」の本質はいっこうに姿をあらわしはしないだろう。
しかしそんなにまでしてなお、ひとを「帰省」や「里帰り」へとかりたてる「故郷」の引力は、やはりよぽど強力なのにちがいない。「故郷」への思いは、ひたすら空振りをくりかえしながら募るばかりだ。
