北欧、フィンランドをこよなく愛するカフェ店主がつづる日々のあれやこれや。

2007/01123456789101112131415161718192021222324252627282007/03

ちかごろやけに、moiの前で立ち止まるひとが多い。なので、ぼくはもしかしたら最近もっともよく「立ち止まるひと」を見ている人間のひとりと言えるかもしれない。

そんな「立ち止まるひとウオッチャー」であるところのぼくがみるかぎり、「立ち止まるひと」は往々にしてつぎのような一連の動作をとるものである。つまり、

歩みを止める→中をのぞきこむ→上を見上げる→ふたたび歩きだす

である。これを、「笑い」について分析したフランスの哲学者アンリ・ベルグソンよろしく「分析」してみると、

発見→確認(1)→確認(2)→諒解

となる。つまり、

なんじゃこりゃあああ→ああ、なるほどね→フーン

と置き換えられる。ところが、「確認(1)」が「諒解」に結びつかないため、moiの前で「立ち止まるひと」の多くはさらなる「確認」=上を見上げるという行動に出るわけだ。「なんじゃこりゃあああ」のままでは終われないという意識が、ひとを見上げさせる。

そこからもうひとつわかるのは、「立ち止まるひと」の多くは入り口の上部にお店を説明するなにものかがあると認識しているということである。そしてそれが、しばしば彼らの「なぞ」を解決する糸口になりうるということを彼らは経験的に知っているということにほかならない。かんたんにいえば、

肉屋の「上」には「肉」と書いてあるし、クリーニング屋の「上」には「クリーニング」と書いてある

そう理解しているのだ。じゃあ最初に上を見上げればいいじゃないかと思わないでもないが、ひとは得てして「奥ゆかしい生き物」なのでそうはしないのである。

話を戻すと、moiの前で「立ち止まるひと」は中をのぞき込んでもそれが「何屋」であるかわからないので、やむなく次なる確認として上を見上げることになる。しかしながら残念なことに、moiの入り口の「上」にはなにもない。場合によっては、大家さんが干している布団が目に入るだけ、である。したがってmoiの前で「立ち止まるひと」の多くは、確認の手だてを奪われ、みなどこか悲しげな表情でその場を離れてゆく。

それならば、

「うなぎ」

と「上」に書かれていたとしたら彼らはそれで「納得」してしまうのだろうかなどと、どうでもいいようなことを考え実験してみたくて仕方ないわけだが、そうなると場合によってはmoiで蒲焼きを焼かなければならなくなるので、「立ち止まるひと」を眺めては「おっ、上を見てる、見てる」などとつまらないことに感心するにとどめている。

余談だが、常連のデイヴさんは「立ち止まったひとからチャージもらえば?」などと言う。なるほど!グッドアイデア!売上倍増必至、である。