アンデルジェフスキというピアニストが目の前で「ディアベリ変奏曲」を弾いている。ベートーヴェンの曲だ。場所は紀尾井ホール。
ベートーヴェンのピアノ曲といってまず思い浮かべるのはピアノソナタかもしれない。情感に訴えかけるメロディーや情熱的なパッセージ、あるいは後期の作品にみる極限まで純化された音による孤高の世界は聴くものを圧倒し、惹きつけてやまない。それにくらべると、この「ディアベリ変奏曲」というのはどうもいまひとつ分が悪い。
タイトルからも想像がつくとおり、これはディアベリ(ディアベッリ)という作曲家がつくった短いワルツを下敷きにした変奏曲集である。変奏曲という性格からすれば、独創的でインスピレーションに満ちた楽想からなる一連のソナタにくらべてどうしても退屈に感じられがちなのは無理もない。ベートーヴェン自身も、この曲で変奏曲をつくってほしいと頼まれたものの気乗りせず、しばらくほったらかしにしていたと云われている。「靴屋のつぎはぎ」。この曲を評してベートーヴェンはそんなふうにも言ったらしい。
ところが、気づいてみたらベートーヴェンはこの「靴屋のつぎはぎ」と呼んだ曲をもとになんと33曲(!)もの変奏曲を書いてしまったのである。いったい、なにが起こったのか?
料理人魂に火がついた
そうかんがえるべきだろう。変奏曲というのはそもそも、「一個の素材」をもとに手を変え品を変えする「料理のようなもの」ではないだろうか。明石でとれた天然物の「鯛」を独創的な料理に仕立てるというのは、ある意味「料理人」としてはしあわせな仕事だろう。じゃあ、手渡されたのがごくふつうの、ありきたりの「里芋」だったらどうか?
里芋かよっ
はじめベートーヴェンはそうつぶやいたのかもしれない。しかし(おそらく)途中で気がついたのだろう。「里芋」で極上の一皿をつくってみんなの度肝をぬかしてやろう。それでこそ一流の料理人じゃないか、と。そうして、一個の「里芋」は33皿もの料理として新たないのちを吹き込まれた。「エッ?これ、ほんと里芋ですかぁ?」そんな眞鍋かをりの感嘆の声もきこえてきそうである。
しかしここが難しい。「里芋」は「里芋」だ。15品めともなると、さすがに驚きを通り越して飽きてくる。「せめてジャガイモありませんかぁ?」さすがの眞鍋かをりも当惑気味である(かたわらで、ギャル曽根だけは黙々と食べつづける)。それはともかく、なにが言いたいのかというと、変奏曲にいちばん重要なのは「ライブ感」だということだ。器にきれいにもられた完成作だけでなく、一個の「里芋」がザクザク刻まれ、こんがりソテーされ、あるいはぐつぐつと煮込まれることでいままさに驚愕の一皿に生まれ変わらんとするそのプロセス、その躍動感を想像させることができなければ、この60分ちかくにもおよぶ33の変奏曲を一気に聴かせることは無理といっていい。
「うわぁセンセー、いっそこのまんま食べさせてほしいわぁ」と思わず調理の途中で口にしてしまう、上沼恵美子のあの感じを思い出してほしいのだ。じっさいベートーヴェンは作曲家としての名声を確立するよりはるか以前から、貴族のサロンなどを中心に「ピアノの名手」として名をはせていた。とりわけその初見演奏の腕前と自由自在な即興演奏で人気を博していたという。いきなり誰かから手渡された一個の素材をあっという間に思いもつかないような見事な作品に仕上げてしまう、そういういわば華麗なる天才料理人ぶりを夜な夜なあちらこちらで見せつけていたわけであって、禁欲的かつシリアスな姿勢でソナタを作曲するのとはまたべつの、そういうベートーヴェンのある一面をもっともよく伝えてくれているのがこうした変奏曲だと考えられる。
さて、では今夜の「ディアベリ」はどうだったか?CDで耳にしてきた並み居る巨匠たちの演奏よりも、もちろん全部が全部とはいわないまでも、ぼくにははるかに面白く感じられた。何人かの「巨匠」たちの演奏ではいまひとつ伝わりづらかった「ライブ感」が、たしかにそこには感じられたからにちがいない。全般にフレッシュ、ときに大胆でときに繊細、そうした振幅の広い演奏のせいだろう。最後の変奏、34曲目などはまさに口直しのシャーベットのようだったのだ。
ベートーヴェンのピアノ曲といってまず思い浮かべるのはピアノソナタかもしれない。情感に訴えかけるメロディーや情熱的なパッセージ、あるいは後期の作品にみる極限まで純化された音による孤高の世界は聴くものを圧倒し、惹きつけてやまない。それにくらべると、この「ディアベリ変奏曲」というのはどうもいまひとつ分が悪い。
タイトルからも想像がつくとおり、これはディアベリ(ディアベッリ)という作曲家がつくった短いワルツを下敷きにした変奏曲集である。変奏曲という性格からすれば、独創的でインスピレーションに満ちた楽想からなる一連のソナタにくらべてどうしても退屈に感じられがちなのは無理もない。ベートーヴェン自身も、この曲で変奏曲をつくってほしいと頼まれたものの気乗りせず、しばらくほったらかしにしていたと云われている。「靴屋のつぎはぎ」。この曲を評してベートーヴェンはそんなふうにも言ったらしい。
ところが、気づいてみたらベートーヴェンはこの「靴屋のつぎはぎ」と呼んだ曲をもとになんと33曲(!)もの変奏曲を書いてしまったのである。いったい、なにが起こったのか?
料理人魂に火がついた
そうかんがえるべきだろう。変奏曲というのはそもそも、「一個の素材」をもとに手を変え品を変えする「料理のようなもの」ではないだろうか。明石でとれた天然物の「鯛」を独創的な料理に仕立てるというのは、ある意味「料理人」としてはしあわせな仕事だろう。じゃあ、手渡されたのがごくふつうの、ありきたりの「里芋」だったらどうか?
里芋かよっ
はじめベートーヴェンはそうつぶやいたのかもしれない。しかし(おそらく)途中で気がついたのだろう。「里芋」で極上の一皿をつくってみんなの度肝をぬかしてやろう。それでこそ一流の料理人じゃないか、と。そうして、一個の「里芋」は33皿もの料理として新たないのちを吹き込まれた。「エッ?これ、ほんと里芋ですかぁ?」そんな眞鍋かをりの感嘆の声もきこえてきそうである。
しかしここが難しい。「里芋」は「里芋」だ。15品めともなると、さすがに驚きを通り越して飽きてくる。「せめてジャガイモありませんかぁ?」さすがの眞鍋かをりも当惑気味である(かたわらで、ギャル曽根だけは黙々と食べつづける)。それはともかく、なにが言いたいのかというと、変奏曲にいちばん重要なのは「ライブ感」だということだ。器にきれいにもられた完成作だけでなく、一個の「里芋」がザクザク刻まれ、こんがりソテーされ、あるいはぐつぐつと煮込まれることでいままさに驚愕の一皿に生まれ変わらんとするそのプロセス、その躍動感を想像させることができなければ、この60分ちかくにもおよぶ33の変奏曲を一気に聴かせることは無理といっていい。
「うわぁセンセー、いっそこのまんま食べさせてほしいわぁ」と思わず調理の途中で口にしてしまう、上沼恵美子のあの感じを思い出してほしいのだ。じっさいベートーヴェンは作曲家としての名声を確立するよりはるか以前から、貴族のサロンなどを中心に「ピアノの名手」として名をはせていた。とりわけその初見演奏の腕前と自由自在な即興演奏で人気を博していたという。いきなり誰かから手渡された一個の素材をあっという間に思いもつかないような見事な作品に仕上げてしまう、そういういわば華麗なる天才料理人ぶりを夜な夜なあちらこちらで見せつけていたわけであって、禁欲的かつシリアスな姿勢でソナタを作曲するのとはまたべつの、そういうベートーヴェンのある一面をもっともよく伝えてくれているのがこうした変奏曲だと考えられる。
さて、では今夜の「ディアベリ」はどうだったか?CDで耳にしてきた並み居る巨匠たちの演奏よりも、もちろん全部が全部とはいわないまでも、ぼくにははるかに面白く感じられた。何人かの「巨匠」たちの演奏ではいまひとつ伝わりづらかった「ライブ感」が、たしかにそこには感じられたからにちがいない。全般にフレッシュ、ときに大胆でときに繊細、そうした振幅の広い演奏のせいだろう。最後の変奏、34曲目などはまさに口直しのシャーベットのようだったのだ。
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