北欧、フィンランドをこよなく愛するカフェ店主がつづる日々のあれやこれや。

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 最高気温16度、うっかりすると年の瀬ということすら忘れてしまいそうなポカポカ陽気の中、大山の板橋区立文化会館へ向かう。「柳家小三治独演会」。ことし初。去年とはうってかわり、この時期になってようやく小三治師匠を聴ける。

 小三治師匠の「独演会」は、まず弟子(ときには一門の二つ目)が開口一番をつとめ、その後、中入りを挟んで一席ずつというのがデフォルト。開口一番に登場したのは、三番弟子のはん治師匠。旅のまくらから、三枝(当代の文枝)師匠がつくった『妻の旅行』へ。夫とその息子の会話だけなのに、ありありと「モンスター妻」の姿が浮かび上がってくるおかしさ。定年後、妻の顔色をうかがいながら日々を過ごす気の毒な夫が、はん治師匠の姿と重なっておかしさも倍増。
 ところで、三枝、はん治、小三治という3つの名前を聞いてまずまっさきに思い出されるのは、三枝師匠が六代目文枝の名前を襲名する折、小三治師匠が寄せたお祝いのコメントのこと。落語家としての先行きに悩んでいた自分の弟子のひとりが、ある日、三枝師のつくった噺と出会ったことでふたたび自信をつけ、いまもひとりの落語家として歩んでいることへのそれは心温まる感謝のことばであった。

 はん治師みずから高座返しをし、いよいよ小三治師匠の登場である。目の不自由なひとにまつわるエピソードから、差別用語を使わなければ差別もなくなるとかいえばそういうわけじゃない、日頃からコミュニュティーの一員として接することこそ大事なんじゃないだろうかと『錦の袈裟』に入る。そうそう、そうなのだ、しっかり者のおかみさんがいる与太郎が、町内の若い衆と一緒に繰り出した吉原でちょっといい思いをするこの噺は、滑稽なだけでなく、江戸の隅っこに存在する〝長閑なユートピア〟を舞台にしたあったかいエピソードなのだ。聴いていてぬくぬく気持ちがいい。翌日、法事の席で〝錦のふんどし〟を付けた和尚の様子までが思い浮かぶ。

 中入り後、時間の関係か、まくらもそこそこに『初天神』。金坊の押し付けあいに敗北したおとっつぁん、やむなく初天神でにぎわう神社へと金坊を連れてゆくのだが、ことあるごとに「(おかみさんが)羽織をモタモタ出しやがるから」と繰り返し愚痴るのがおかしい。フリーダムな金坊は当然言うことをきくはずもなく……。
 団子屋でおとっつあんの真似をする金坊、おねだりの〝知恵〟を授けるしたたかな凧屋のおやじ、次から次へと繰り出される祭りの日ならではの賑やかなエピソード。でもやはり、なんといっても小三治師の「初天神」は、金坊そっちのけで凧揚げに夢中になってしまうおとっつぁんに尽きる。純真無垢というか、まさにこの親にしてこの子あり。サゲまで行かず途中で切られてしまうことの多い、またそれで十分に楽しい噺ではあるけれど、やはりこの凧揚げのくだりまで行ってこそ〝一卵性父子〟の面白さが伝わるのだなァ。

 ♪いいな、いいな、人間っていいな… ふつうに人間を描きながら、いやだからこそ、噺の末端にまであたたかい〝ひとの血〟が通っている。小三治師匠の落語を聴いた後は、たとえそれがどんな噺でも、心にぽっとあたたかい気持ちを灯しつつ家路につくことのできる安心感。ぼくにとって〝小三治落語〟がスペシャルな理由は、そこにある。

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2015年12月22日

大山・板橋区立文化会館

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◎柳家はん治『妻の旅行』
◎柳家小三治『錦の袈裟』
〜中入り〜
◎柳家小三治『初天神』


 
ひさしぶり、番組が3部制になってからは初の連雀亭。「ワンコイン寄席」は、時間が繰り上がって11時30分からの60分となった。少ない休日を有効活用できるのでありがたい。そしてきょうは、落語協会所属の二ツ目3人による落語会。

◎柳家ろべえ「もぐら泥」

こんなに入っている連雀亭は初めて見た、とろべえさん(たぶん20名以上の入り)。いつも自分が出るときはつばなれがやっとなのに、みんなつる子めあてなんでしょうとお客さんへのぼやきから、縁起がいいとされるドロボウのまくらへ。ぼやきながらも、二ツ目に昇進したばかりのつる子さんにちゃんとエールを送るいい先輩。

「もぐら泥」。店の主人と、縁の下で身動きがとれなくなった泥棒。そのやりとりを、カメラが切り替わるように交互に繰り返すやりとりが楽しい。周囲を気にしながら塀の下を掘っているときのしぐさは、どうしてなかなか堂に入っている。いっぽう、凄んだり哀願したり、捕まってからの必死の様子も滑稽だ。泥棒なのに、なんだかあまりにも可哀想でつい味方してあげたくなってしまう噺である。それにしても、ろべえさんを聴いていると、つくづく喜多八師匠のことが好きなんだなぁと感心してしまう。師匠の得意ネタをしっかり受け継ぎつつ、さらにそれがろべえさんの噺に変化していったら「殿下」としても安心、盤石の師弟関係といえそう。

◎古今亭始『時そば』

最近ミスiDで特別賞を獲ったつる子さんから、応募にあたっては色々と相談を受けたという始さん、受賞したのはある意味自分のおかげと恩を着せる。「時そば」。ひさしぶりに始さんを聴いたのだけど、相変わらずの安定感。とくに、ペラペラと愛想を述べる男の調子のいいこと! 対する、それを真似する男は「川越生まれの小江戸っ子」。ただ「『時そば』を聴いた」というよりも、ちゃんと「始さんの『時そば』を聴いた」という感じ。型は崩さないがどこか弾けてる、そこが始さんの魅力かもしれない。

◎林家つる子『壺算』

先輩から散々まくらでいじられたつる子さん、始さんとろべえさんは落語協会のオシャレ番長ツートップと持ち上げ、アドバイスが受賞に導いたのかもとその貢献を認めながらも、「つくづく賞金のない賞でよかった」としれっと逃げてみせるあたりうまい。ある落語会でのこと、開口一番で「子ほめ」をかけていたら後の出番の演者が遅れているため引き延ばすようにとの指示が出た。考えた挙句、「子ほめ」の赤ん坊の名前を「寿限無」ということにしてそのまま続けて『寿限無』に入ってなんとか急場をしのいだとのこと。そんなつる子さんは、落語を聴いていて、ある噺の登場人物とべつの噺の登場人物がもしかしたら同一人物なんじゃないか、とふと思うときがあるという。そして、(前のネタを受けて)「時そば」の男はきっとこの男と同じなんじゃないだろうかと『壺算』へ。なるほど、考えたこともなかったけれど言われてみれば……。『壺算』の男も、「買い物上手」というよりは、数字を巧妙に弄んだイタズラだもんね。初めて聴く噺家さんなのでよくわからないとはいえ、こういうつる子さんの想像力は、たとえば新作をつくったりする際にも武器になったりするのではないか。目のキョロっとした愛くるしい顔で表情たっぷりに演じるのも、自分の武器をちゃんと知っている証拠。クレバーなひとである。

先輩二人が新二ツ目に花をもたせ、新二ツ目もしっかりそれに応えてみせる、そんな趣のなごやかな会だった。

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2015年12月16日

神田・連雀亭ワンコイン寄席

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◎柳家ろべえ『もぐら泥』
◎古今亭始『時そば』
◎林家つる子『壺算』

 日々、お店のカウンターに立ってするとはなしに「定点観測」していると、じつにさまざまな光景と出くわします。お店の店先に3日間カメラが張り付いて、そこを訪ねてきたお客さんにインタビューする「ドキュメント72時間」というテレビ番組がありますが、まさにちょうどあんな感じです。

 これは、中年女性の3人組によくある行動パターンなのですが、なにやらにぎやかにおしゃべりをしながらお店に入ってきます。商品のポストカードを眺めたり、雑貨を手にとったりするかと思いきや、売り場の真ん中に立って相変わらずおしゃべりに夢中です。話のキリのいいところで商品を見るのだろうと思って眺めていると、いっこうに話の「キリ」はやってきません。それどころか話はいっそう盛り上がり、もはや商品に背中さえ向けています。5分ほど経つと、なかのひとりが出口にむかって歩きだし、残りの2人もそれにあわせて移動します。出ていってしまいました……


あれは一体なんだったのか?


こちらはしばらく悩むことになります。「店があったらとりあえず入る」きっと、そうDNAに刻み込まれているにちがいありません。

 お店の片隅に、ダイソンのファンヒーターがあります。平ったく言えば、「羽根のない扇風機」といったところでしょうか。このダイソンの前を通るとき、多くのお客様が、通りすがりに手をかざして本当に風が出ているか確認していきます。世の中には、疑り深いひとが多いようです。けれども、とても申し訳ないことには、ふだんはコンセントからプラグを抜いていることが多いのでその疑念を拭い去って差し上げることができません。3回に1回は電源がオンになっていますので、ぜひまたお茶しにきて下さい。
 ところで、これはいまさっきの話ですが、なんと推定3歳児といったルックスの男の子が通りがかりにダイソンの前で立ち止まり、手をかざしていきました。おそらく自宅にあるのしょうが、いまどきの3歳児はあの「輪っか」を見て即時に「扇風機」と理解できるのですね。ちょっとした「発見」でした。
 いまとなってはむしろ、あの独特の輪っかというかフレームを見ると反射的に「ダイソン」と認識する、そういうひとがぼく自身もふくめ多そうです。「刷り込み」というヤツでしょうか。そうなってくると、ついついこんなことを考えてしまいます。
 まず、ダイソンそっくりのオブジェを作ります。たぶん、ひとはそれを見て思わず手をかざしてしまうことでしょう。が、風は出ません。そのかわりに、突然、上から水が出てきます。これは相当のひとが引っかかるのではないでしょうか。ウオッ!とか、ひえーっ!とか、さまざまな叫び声が店内にこだましそうです。想像しただけでワクワクします。ちょっとした店主のひまつぶしにはなりそうですが、水びたしになった床をいちいちモップがけする手間を思うとかなり面倒くさく、残念ながら実現への道のりは遠そうです。そんなわけなので、ひとまずは想像の世界にとどめ、ふたたび「定点観測」に戻りたいと思います。
ジャングルをさまようかのような目線の低さが楽しい。

荻窪にあった自邸の庭を描いた、鈴木信太郎による昭和13(1938)年の作品『青い庭(芭蕉と百合)』。幼いころの病によって足が不自由だった鈴木は、地べたに座ってスケッチすることもしばしばだったという。ことし(2015年)そごう美術館でひらかれた『生誕120年・鈴木信太郎展 親密家のまなざし』の図録にも、アトリエの床に座布団を一枚敷き、その上に横っ座りのようなずいぶんと不自然な体勢で絵筆をふるう画家の写真が掲載されている。

しばしば「童心の画家」と呼ばれることもある鈴木信太郎だが、素朴で無垢な画風はもちろん、その「目線の低さ」ゆえ観る者の心を自然と子供の頃へと連れ出してしまう、そんなこともまたあるのかもしれない。

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 よく、好きなアニメやマンガに登場する舞台を実際にたずねあるくことを「聖地巡礼」と言ったりするが、いつ、だれが最初に言い出したかはともかく、なかなかうまいこと言ったもんだなァと感心する。ただ「好き」という以上の、他人の目にはちょっと奇異に映るくらいの情熱がなければなかなか足を使って現地までは出向かないものだし、その意味で、ちゃんとそこには宗教的なニュアンスも含まれているのである。
 じっさい、アニメやマンガにかぎらず、そうした「聖地巡礼」は古くから世界じゅうで行われている。たとえば、ビートルズの熱狂的なファンがアビー・ロード・スタジオをたずね例の横断歩道で記念写真を撮るのもそうだし、熱狂的なワーグナー信者=ワグネリアンたちは、バイロイト祝祭劇場を訪ねることをしばしば「バイロイト詣で」と呼んできた。

 ところで、洲之内徹の『気まぐれ美術館』(新潮社)のなかにも「聖地巡礼」の話が登場する。
 松本竣介が描いた風景を、ひとつひとつたずねあるいているひとの話だ。丹治日良(あきら)という画家がそのひとで、タイトルやさまざまな資料をもとに現地に赴いてみるのはもちろん、ときには自身の記憶や勘をたよりにその「現場」を特定したりもする。その結果、これまでAとされてきた場所がじつはそうではなく、まったくべつのBという場所であったという事実を突き止めたりもするので、あるいは、たんなる「聖地巡礼」とは呼べないかもしれない。
 洲之内徹は、その丹治に誘われるままま竣介が描いた風景をたずねて東京、横浜を歩きまわり、いくつかの興味深い「発見」をしてゆく経緯をいくつかのエッセイに書き残している(「松本竣介の風景」(一)〜(四))。

 昭和16(1941)年ごろ、竣介が神田駿河台の「ニコライ堂」を描いた油彩がある。
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 かつて東京美術学校の建築科にいた洲之内は、まず、この絵のなかで前景に並んだ「鉄柱の列」に目をつける。この「ニコライ堂」がいったいどのアングルから描かれたものなのか気になった洲之内は、さっそく御茶ノ水まで出向いてニコライ堂の附近を歩き回るのだがいっこうにみつけられない。ところが後日、松本竣介の画集を眺めていた彼は、そこにあの「見憶えのある鉄骨のコンビネーション」を発見する。「新宿のガード」を描いたスケッチであった。つまり、洲之内がみた竣介の「ニコライ堂」は、ごくふつうの風景画のようにみえて、そのじつ「新宿のガード」と「神田駿河台のニコライ堂」とを画面のそれぞれ下半分と上半分で合成したモンタージュだったというわけである。
 いっぽう丹治も、タブローだけにかぎらず、竣介が残したスケッチの場所をたずねあるき、またその景色を丹念に眺めることでつぎつぎと新しい発見を重ねてゆく。たとえば、それまで下落合附近とされてきた『鉄橋近く』(1943)の景色がじつは五反田であること、また、竣介の作品のなかでもとりわけよく知られたもののひとつ、『立てる像』(1942)では高田馬場近くの景色が背景として、しかも反転させて描かれていることなどが明かされている。『都会』(1940)や『街』(1938)にみられるように竣介がモンタージュの技法を好んでとりいれていたことは知っていたが、ごくふつうの風景画にみえる作品にまでモンタージュや〝改変〟が巧みになされているとは気づかなかったし、こういう発見は「聖地巡礼」なくしてはけっしてありえなかったのではないか。

とはいえ、

一枚の風景画の現場がどこかというようなことは、その作品の、作品としての価値にはたいして関係はない。(「松本竣介の風景(一)」『気まぐれ美術館』(新潮社)204頁)



と洲之内徹も書いているように、こうした発見がたとえば松本竣介の思想を映しているかといえばべつだんそういうわけではないだろう。むしろ、この一連の「聖地巡礼」をめぐるエッセイをとおして洲之内が言っているのは、こうした「発見」をなしえた丹治日良の眼、見ることをめぐる画家ならではの眼の動きについてである。

物を見るということが、画家と、そうでない人間とではちがう。画家は一瞬のうちに風景の全部を見るのではない。手が画面を動いて行く順序に従って、部分から部分へと見て行く。いわば、手で物を見る。そして、そういう動きかたに慣れた眼が、記憶の中にある竣介の絵のある部分を現実の風景の中で発見し、部分の発見が全体の発見へと拡げられて行く。そういう経過をたどるらしい。(「松本竣介の風景(一)」『気まぐれ美術館』(新潮社)208頁)



そして洲之内が、「ニコライ堂」の油彩のなかで「鉄骨のコンビネーション」が強く印象に残っていたのも自身が美校の建築科で設計を学んだという出自ゆえであろうと言う。どうもやはり、これは単純な「聖地巡礼」ではないようだ。
 いっぽう、そんなことをかんがえながらこのエッセイを読んでいる凡庸なぼくは、風景を描く際に建物の位置をずらしたり、ときに足したり引いたりする画家の意識といったものが気にかかる。さっそく身近なところで、敬愛する大平高之さんにそのあたりのことを尋ねてみた。「風景をそのまま描いて、なおかつそれでちゃんと絵になっているというのは相当大変なことなんですよ」。対象は、そうした〝改変〟もふくめてほかならぬ自分だけの作品として生み出される、ということなのだろう。「竣介の画面のこの緊張力、この魅惑は、彼の作品が、そのモチーフとなった対象をむしろ圧倒し、凌駕し、対象自体には望むべくもない純度の結晶体となっているからだ」と書く洲之内にならえば、画家の眼をとおして景色が結晶化され作品として昇華されてゆく過程では、建物の位置をずらしたり、ときに足したり引いたりといった〝改変〟はごく自然に、また必然的に行われるいわば当然の手続きということだ。

 そうは言いながら、やはり凡庸な人間ほど芸術にドラマを見たがるというのもまた事実。

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 昭和17(1942)年9月の第29回二科展に出品された『立てる像』は、松本竣介の自画像としてよく知られているが、過去にすくなくとも3度ほどこの実物をみているにもかかわらず、ぼくはずっとこの絵を焼け跡に立つ画家の姿を描いたものと勘違いしつづけていた。この『立てる像』の背景部分には高田馬場の目白変電所やごみ捨て場附近が描かれているが、画面中央で仁王立ちする人物に対して建物は広角レンズで覗いたかのように遠景に引いて描かれている。無機質なコンクリートの変電所や煙突や葉の落ちた木が並ぶ様子から、どうやら勝手に焼け跡のイメージを重ねてしまっていたようだ。
 とはいえ、この作品が発表されたのとおなじ昭和17(1942)年4月18日、東京は初めての空襲に見舞われ、背景に描かれた高田馬場界隈からもほど近い早稲田鶴巻町や馬場下町にも被害をもたらしている。さらにその3年後には東京じゅうが焦土と化すのだから、画家の意志とは関係なく、その作品が現実の世界とリンクしてしまった不思議を思わずにはいられないのである。