北欧、フィンランドをこよなく愛するカフェ店主がつづる日々のあれやこれや。

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「この先」のことについて、かんがえている。それにもし、キーワードをあてはめるとすれば

小確幸(しょうかっこう)

がふさわしい。村上春樹が、『うずまき猫のみつけかた』というエッセイのなかであきらかにしている概念だ。その意味は、読んで字のとおり

ちいさな確実なる幸福

ということらしい。これまでぼくは、おなじことを暮らしのなかの「句読点」と言ってきたのだけれど、この「小確幸」ということばには、さらに積極的に「しあわせ」という意味がこめられている点でより自分のかんがえていることに近いな、といま感じている。

フィンランドの人たちの暮らしは、ぼくらの目からみるとより慎ましく映る。モノや情報の多さを「豊かさ」と捉えるなら、日本はフィンランドよりもはるかに「豊か」だろう。でも、ぼくにはどうしたわけか逆に映る。なぜだろう? 初めてフィンランドを訪ねて以来、ずっとかんがえてきたことだ。その「答え」が、ようやく最近になってみえてきた。

フィンランドの人たちの暮らしには「小確幸」が、ある。

もっと言えば、ちょうど水泳の「息つぎ」よろしく、それを生活のリズムとして巧みに採り入れている気がしている。北に生きる人々の「知恵」だろう。たとえば、仕事の合間に緑豊かな公園で寝そべったり、陽のあたるカフェでお茶したり、仕事後には水辺の公園を散歩したり、休日には海辺や街はずれの森にでかけたり……。図書館が充実していて、どこでも借りたり返したりできたりなんていうのも、じつは「小確幸」を感じる要素のひとつかもしれないな。

個人的には、ヘルシンキ中心部くらいの広さ(東西南北なんとか徒歩や自転車移動できる程度)が人間の暮らしやすいエリアだという気がする。東京でいえば、23区のひとつ分くらいだろうか。それくらいのエリアをじぶんの「生活圏」として耕してゆき、どれだけの数の「小確幸」をみつけることができるか? 実践してみるのはなかなか面白いアイデアじゃないか、と思っている。

公園、お気に入りのカフェや食堂、図書館、散歩道、水辺や自然を感じられる空間などなど…… 仕事から早く解放された日には、じぶんの生活エリアのあまりなじみのない街に行って食事をしてバスで帰ってみたり、休日には散歩がてら徒歩や自転車でお気に入りの店や場所に行ってみるのだ。不便や不満な点があれば、区役所や市役所に進言するのもいい。それは、じぶんのエリアを耕して、さらに「小確幸」をふやすことにつながるかもしれない。

東京は単純に広い。東京に限らず、日本の都市は多かれ少なかれそうじゃないだろうか。最近あらためて気づいたのだけれど、日ごろ「京都がいい」とか「ヘルシンキはいい」とか「札幌がいい」とか思うのは、つまるところ

手ごろなサイズの街の中に、「小確幸」を感じられる場所がたくさんある

せいだと思う。だから、こんなふうに、自分の生活圏を意識的に「頑張れば徒歩や自転車だけでも移動できるくらいのエリア」に囲ってみて、どんどん「じぶんの地図」を拡充させてゆくのがいい。日本は、と語るのが壮大であるように、東京は、と語るのもひとりの人間にとってはひどく壮大なことなのだ。自分を都道府県で語るのでなく、せいぜい区や市の「単位」でかんがえ、行動してみてはどうだろう。杉並区のひと、吉祥寺のひと、といった感じで。

ル・コルビュジェのモデュールではないが、自分という単位があり、家という単位があり、じぶんの暮らす「街」という単位がある。その「単位」(たとえば杉並区や北区といった)が「豊か」であれば、その総体である東京という単位も「豊か」になる。ひとつひとつの都道府県が「豊か」であれば、その総体である日本という単位も「豊か」になって当然だ。最小の単位から最大の単位へ、点から面へ、豊かさを波紋のように拡げてゆくこと。

こうした波状の拡がりが世論となり、やがては企業を変え、エネルギーを変え、政治を変える。

でも、「この先」いちばん肝心なのは、やっぱり「こころ」であることに変わりはない。「小確幸」は、それを幸せと感じ取れる「こころ」の中にしか存在しえないからだ。
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