北欧、フィンランドをこよなく愛するカフェ店主がつづる日々のあれやこれや。

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春はあけぼの、街は「節電」、である。

渋谷のスクランブル交差点が、すれちがうひとの顔が見えないくらい暗い(ガン黒が流行っている時代じゃなくてよかったね)とか、夜の銀座がやたら物寂しいとか、いろいろなひとからそんな話を耳にする。

経済効果とか防犯とか問題はいろいろあるのだろうけれど、つねづね東京の建物も夜も明るすぎると思っていた身としては、これがデフォルトでも全然かまわないんじゃないかというのが正直なところ。

とはいえ、いくら「節電」だからってなにもかも消せばいいってもんじゃないだろう、そういう気もある。


たとえば、東京タワー。


確認したわけじゃないが、おそらくいま、東京タワーはライトアップを「自粛」しているのではないか。でも、ぼく個人の「心情」としては、やはり「東京タワー」にはあかりが灯っていて欲しいのだ。

たまにどこか西の方に出かけて新幹線で戻ってくるとき、「東京に帰ってきた」と心の底から思うのは、品川を過ぎ車窓に東京タワーの姿が飛び込んできた瞬間である。それは、「無事に帰ってきた」という安堵と「もう帰ってきてしまった」という一抹の淋しさがないまぜになったねじくれた感傷としていつも出迎えてくれる。

東京で生まれ育ったとはいえ、幾たびも東京のなかで引っ越しを重ねたぼくにとって、東京に自分自身の「郷里」と呼ぶべき特定の土地は、ない。だから、いざというときにはなんの戸惑いもなく、ぼくは東京を捨て去ることができると思う。寂しい話ではあるけれど。ただ、そのような時が訪れたとして、ぼくに唯一「郷愁」をかきたたせる存在があるとすれば、それはまちがいなく子供の時分から現在(いま)に至るまで、いつも変わらぬ姿で東京のいわば「象徴」としてぼくを迎えてくれる「東京タワー」の存在であるだろう。

「節電」は、いま東京に生きる以上避けることのできない責務だ。ただ、それと同時に、「節電」はそこに暮らす人間の「心情」を無視するものであってはいけないとも思う。すくなくとも、いつも通りあかりの灯った東京タワーの姿は、電力消費を抑えるという効果以上に、(灯っていることで)「安心」や「希望」として見るひとの心にかけがえのない効果をもたらしてくれると信じるからだ。東京に生きる者にとって東京タワーのあかりは、なにがあってもたやしてはならないオリンピックの聖火のようなものなのである。


ちょくちょくのぞかせていただいている、主人公が「東京タワー」のブログです:東京ティッシュ
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