北欧、フィンランドをこよなく愛するカフェ店主がつづる日々のあれやこれや。

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こればかりは、どうしても書いておかないわけにはいかない。

郡山の「プレイタイムカフェ」さんが、東京電力福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染を理由に「閉店」されるそうだ。オーナーさんが書かれたブログの記事を読み、その無念さや悔しさを思うと心が張り裂けそうだ。

「プレイタイムカフェ」のオーナーさんとは直接の面識はないとはいえ、お店の存在はもちろんずっと前から知っていたし、ツイッターでフォローさせていただいていることもあり、3.11以降かなり緊迫した状況に置かれていることは理解していた。なので、今回「閉店」を決断されたことを知ったときも、驚きよりはむしろ「ああ、やっぱり」という失望感のほうがずっと強かった。

ちいさなお店というのは、哲学者パスカルが語るところの「一本の葦」同様、か弱い存在である。それでも弱いなりに日々ちいさな努力を重ね、信頼や愛着を得ることでひとりひとりのお客様に支えられてようやく大地に根づき、少しずつ、ほんとうに少しずつ育ってゆくことができるものなのだ。たとえば大手のセルフカフェなら、その資金力やマニュアルの下、初めての土地でもすぐさまある程度の利益を上げてゆくことはできるかもしれない。でも、ちいさなお店がそれをやることはとてつもなく難しい。すくなくとも、とても時間を要することだ。そのことをよく知っているからこそ、ぼくはいま大きく憤っている。さながら仲間を通り魔に殺されたような心持ちとでもいえば、いまの心境が多少は伝わるだろうか?

ひとたび事故が起きれば、ほんの一瞬にしてひとが日々努力を重ねてようやく築き上げてきたものを打ち砕き、大切な人との思い出を奪い去り、情け容赦なくその土地から引き剥がす、そもそも「原発」とはそういうものなのだ。だからこそ、そのような人間の尊厳を奪いさるモンスターは技術として「実用化」すべきではない。少なくとも、今後の社会においてはそうした理解の下べつの方向にシフトすべきだと、強くぼくはかんがえる。

本当に、読めば読むほどつらく悲しい現実のなかにあって、それでもオーナーさんはこんな風におっしゃっている。「命が助かったからには、絶望することなく、楽観することもなく、生まれてきたからには死ぬまで生きるということを、できれば、楽しみながら、まっとうしていこうと思います」。なんて「強い」ことばなのだろう。

パスカルの「パンセ」は、それが断章ということもあってとても読みづらい。読みづらいけなりに、ぼくは読んでこんなふうに理解している。

人間はとてもか弱い「一本の葦」である。一本の葦が嵐の前ではなすすべもないように、人間も宇宙(世界とか現実とか言ってもいいかも)の前ではちっぽけな存在である。でも、とパルカルは言う。人間は「考える葦」である、と。人間は、自分がいかに弱いものであるかを「知っている存在」である。いっぽう、宇宙はなにも知らない。人間はか弱いけれど、自分がか弱い存在であるということを知っているからこそ、宇宙と向き合える。向き合うというのは、かんたんには「折れない」ということだ。一本の葦は強い風にあおられ、地面に叩きつけられそうになるけれど、またすーっと真っすぐ立ち上がる。ひとの存在はちっぽけだけれど、考え、思いめぐらすことだけは無限にゆるされている。だからこそ、考え、思いめぐらすことで、ひとはなんの感情も持たないこの殺風景な宇宙とわたりあい背筋を伸ばして生きてゆくことができるのである。

今回「プレイタイムカフェ」さんの閉店を知り、なにかオーナーさんにはお声をかけたいと思ったのだけれど、その心の痛みを思うとなにもかけることばを思いつかないままいまに至っている。でも、日々なにかを思い、知り、感じ、考えるなかで、なにかふたたびそれが「かたち」になった際には、ぜひ大きな声で祝福のことばをかけさせていただきたいと思っている。
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