北欧、フィンランドをこよなく愛するカフェ店主がつづる日々のあれやこれや。

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餅は餅屋


ということわざがある。調べると「何事においても、それぞれの専門家にまかせるのが一番良いということのたとえ。また、上手とは言え素人では専門家にかなわないということのたとえ」(「故事ことわざ辞典」より引用)とある。ごもっとも。

もともとは、プロフェッショナルの仕事への「信頼感」とそれがぼくらにもたらす絶大なる「安心感」を、「餅屋」にたとえて言ったのだろう。それはよくわかる。とはいえ、3.11以降、こうした日本人のもつプロフェッショナルへのある種「信仰」に近いリスペクト(?)が、あまり好ましくないかたちで顕在化しているような気がしてならない。なぜなら「餅は餅屋」という発想は、よりネガティヴに


素人は余計な口出しするな


と置き換えることができるからだ。

3.11以後、いろいろな人たちが原発のありかたや放射能汚染、それにからめて政府への批判などをツイッターを介して意見するようになった。ごくわずかに専門家もしくは専門的知識をもったひともいるが、そのほとんどは「素人」だ。当然、なかにはヒステリックな声もあれば、まったく現実を無視したかのような意見もある。無知ゆえの単純な勘違いも少なくない。また、ツイッターの場合、意図的に自分の嗜好に合う人物をフォローしがちなので「井の中の蛙」になりやすいという欠点もある。テレビでもおなじみの池上彰さんは、「『正しく恐れる』ことのむずかしさ」というコラムでこう指摘する。


「こういう事故が起きると、人は、自分の考えを補強する情報ばかり欲しがる傾向になるのだなと思います。放射能や放射線が恐い人は、今回の事故がいかに危険かという情報ばかりを集めて読みたくなるのでしょう。」


今回、自分自身への反省もふくめ痛感したのはまさにそういうことだった。それでもなお、「餅は餅屋」という発想の下ひとが「考えなくなってしまう」のにくらべれば、個人が「意見する」ことは大事だとぼくはかんがえる。「意見する」ことは同時に、「責任を持つ」ことでもあるからだ。そして、意見を言うことと他人の意見に耳を貸すことはつねに「一対」でなければならない。

科学にとって進歩は「業」のようなものである。ときにそれは、暴走する列車のように誰にも止めることができない。それゆえ、未来はけっして明るいものではない…… 文明学者の梅棹忠夫はそうかんがえた。いまから60年近くも前のことだ。そして、もし仮に、その暗澹たる未来を照らす一筋の光明があるとすれば、そのカギとなるのは、思想をあたかも「道具」のように使うことのできる「アマチュアによる英知」にちがいないと予見する(NHK「ETV特集・暗黒のかなたの光明~文明学者 梅棹忠夫がみた未来~」より)。

この先を思うとき、餅は餅屋という発想は、ひとまずカッコに括ってしまってよいのではないだろうか。とんちんかんでもいい、まずは素人(アマチュア)が「意見する」こと、それが肝心だ。意見をすれば賛同もある代わり、批判もあるだろう。しかし意見は、そういったたくさんの異なる声にもまれてこそ鍛えられるのもまた事実。他の声に耳を貸さない独断的な意見は、いずれ誰からも相手にされなくなって消えるだけのことだ。それに近ごろは、餅と偽って発泡スチロールや石けんを食べさせようとするたちの悪い餅屋も横行しているらしいからね。まずは自分でかんがえ、意見するところから始めたい。
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