北欧、フィンランドをこよなく愛するカフェ店主がつづる日々のあれやこれや。

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 よく、好きなアニメやマンガに登場する舞台を実際にたずねあるくことを「聖地巡礼」と言ったりするが、いつ、だれが最初に言い出したかはともかく、なかなかうまいこと言ったもんだなァと感心する。ただ「好き」という以上の、他人の目にはちょっと奇異に映るくらいの情熱がなければなかなか足を使って現地までは出向かないものだし、その意味で、ちゃんとそこには宗教的なニュアンスも含まれているのである。
 じっさい、アニメやマンガにかぎらず、そうした「聖地巡礼」は古くから世界じゅうで行われている。たとえば、ビートルズの熱狂的なファンがアビー・ロード・スタジオをたずね例の横断歩道で記念写真を撮るのもそうだし、熱狂的なワーグナー信者=ワグネリアンたちは、バイロイト祝祭劇場を訪ねることをしばしば「バイロイト詣で」と呼んできた。

 ところで、洲之内徹の『気まぐれ美術館』(新潮社)のなかにも「聖地巡礼」の話が登場する。
 松本竣介が描いた風景を、ひとつひとつたずねあるいているひとの話だ。丹治日良(あきら)という画家がそのひとで、タイトルやさまざまな資料をもとに現地に赴いてみるのはもちろん、ときには自身の記憶や勘をたよりにその「現場」を特定したりもする。その結果、これまでAとされてきた場所がじつはそうではなく、まったくべつのBという場所であったという事実を突き止めたりもするので、あるいは、たんなる「聖地巡礼」とは呼べないかもしれない。
 洲之内徹は、その丹治に誘われるままま竣介が描いた風景をたずねて東京、横浜を歩きまわり、いくつかの興味深い「発見」をしてゆく経緯をいくつかのエッセイに書き残している(「松本竣介の風景」(一)〜(四))。

 昭和16(1941)年ごろ、竣介が神田駿河台の「ニコライ堂」を描いた油彩がある。
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 かつて東京美術学校の建築科にいた洲之内は、まず、この絵のなかで前景に並んだ「鉄柱の列」に目をつける。この「ニコライ堂」がいったいどのアングルから描かれたものなのか気になった洲之内は、さっそく御茶ノ水まで出向いてニコライ堂の附近を歩き回るのだがいっこうにみつけられない。ところが後日、松本竣介の画集を眺めていた彼は、そこにあの「見憶えのある鉄骨のコンビネーション」を発見する。「新宿のガード」を描いたスケッチであった。つまり、洲之内がみた竣介の「ニコライ堂」は、ごくふつうの風景画のようにみえて、そのじつ「新宿のガード」と「神田駿河台のニコライ堂」とを画面のそれぞれ下半分と上半分で合成したモンタージュだったというわけである。
 いっぽう丹治も、タブローだけにかぎらず、竣介が残したスケッチの場所をたずねあるき、またその景色を丹念に眺めることでつぎつぎと新しい発見を重ねてゆく。たとえば、それまで下落合附近とされてきた『鉄橋近く』(1943)の景色がじつは五反田であること、また、竣介の作品のなかでもとりわけよく知られたもののひとつ、『立てる像』(1942)では高田馬場近くの景色が背景として、しかも反転させて描かれていることなどが明かされている。『都会』(1940)や『街』(1938)にみられるように竣介がモンタージュの技法を好んでとりいれていたことは知っていたが、ごくふつうの風景画にみえる作品にまでモンタージュや〝改変〟が巧みになされているとは気づかなかったし、こういう発見は「聖地巡礼」なくしてはけっしてありえなかったのではないか。

とはいえ、

一枚の風景画の現場がどこかというようなことは、その作品の、作品としての価値にはたいして関係はない。(「松本竣介の風景(一)」『気まぐれ美術館』(新潮社)204頁)



と洲之内徹も書いているように、こうした発見がたとえば松本竣介の思想を映しているかといえばべつだんそういうわけではないだろう。むしろ、この一連の「聖地巡礼」をめぐるエッセイをとおして洲之内が言っているのは、こうした「発見」をなしえた丹治日良の眼、見ることをめぐる画家ならではの眼の動きについてである。

物を見るということが、画家と、そうでない人間とではちがう。画家は一瞬のうちに風景の全部を見るのではない。手が画面を動いて行く順序に従って、部分から部分へと見て行く。いわば、手で物を見る。そして、そういう動きかたに慣れた眼が、記憶の中にある竣介の絵のある部分を現実の風景の中で発見し、部分の発見が全体の発見へと拡げられて行く。そういう経過をたどるらしい。(「松本竣介の風景(一)」『気まぐれ美術館』(新潮社)208頁)



そして洲之内が、「ニコライ堂」の油彩のなかで「鉄骨のコンビネーション」が強く印象に残っていたのも自身が美校の建築科で設計を学んだという出自ゆえであろうと言う。どうもやはり、これは単純な「聖地巡礼」ではないようだ。
 いっぽう、そんなことをかんがえながらこのエッセイを読んでいる凡庸なぼくは、風景を描く際に建物の位置をずらしたり、ときに足したり引いたりする画家の意識といったものが気にかかる。さっそく身近なところで、敬愛する大平高之さんにそのあたりのことを尋ねてみた。「風景をそのまま描いて、なおかつそれでちゃんと絵になっているというのは相当大変なことなんですよ」。対象は、そうした〝改変〟もふくめてほかならぬ自分だけの作品として生み出される、ということなのだろう。「竣介の画面のこの緊張力、この魅惑は、彼の作品が、そのモチーフとなった対象をむしろ圧倒し、凌駕し、対象自体には望むべくもない純度の結晶体となっているからだ」と書く洲之内にならえば、画家の眼をとおして景色が結晶化され作品として昇華されてゆく過程では、建物の位置をずらしたり、ときに足したり引いたりといった〝改変〟はごく自然に、また必然的に行われるいわば当然の手続きということだ。

 そうは言いながら、やはり凡庸な人間ほど芸術にドラマを見たがるというのもまた事実。

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 昭和17(1942)年9月の第29回二科展に出品された『立てる像』は、松本竣介の自画像としてよく知られているが、過去にすくなくとも3度ほどこの実物をみているにもかかわらず、ぼくはずっとこの絵を焼け跡に立つ画家の姿を描いたものと勘違いしつづけていた。この『立てる像』の背景部分には高田馬場の目白変電所やごみ捨て場附近が描かれているが、画面中央で仁王立ちする人物に対して建物は広角レンズで覗いたかのように遠景に引いて描かれている。無機質なコンクリートの変電所や煙突や葉の落ちた木が並ぶ様子から、どうやら勝手に焼け跡のイメージを重ねてしまっていたようだ。
 とはいえ、この作品が発表されたのとおなじ昭和17(1942)年4月18日、東京は初めての空襲に見舞われ、背景に描かれた高田馬場界隈からもほど近い早稲田鶴巻町や馬場下町にも被害をもたらしている。さらにその3年後には東京じゅうが焦土と化すのだから、画家の意志とは関係なく、その作品が現実の世界とリンクしてしまった不思議を思わずにはいられないのである。
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