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北欧、フィンランドをこよなく愛するカフェ店主がつづる日々のあれやこれや。

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話は前後するが、秋に京都へ行ったのは二度目のことだ。十年くらい前、遅い「夏休み」で来たときは一週間ずっと京都にいて、これといった予定も立てずぶらぶらとコーヒーを飲んだりレコード屋をひやかしたり、ときには神社仏閣まで足をのばしたりとひとり気ままにすごしたのだった。おかげで、京都市内だったらたいていの所へは地図なしでたどりつく自信がある。

ところで、京都では広隆寺にも行った。広隆寺も二度目で、やはり秋だった。もちろんお目当ては有名な「弥勒菩薩半跏思惟像」で、建物の中は修学旅行の学生たちでとてもにぎやかにもかかわらずなぜかその仏像の周囲だけは空気がしんと静まりかえっているように感じられて不思議だったことをおぼえている。今回は微妙にオフシーズンだったのか広隆寺の広い境内は閑散としていて、「弥勒菩薩像」のある建物も人影はまばらだ。

正直なところ、ぼくはとりたてて「仏像」に興味はない。前ここにきたのも「なんか有名だからとりあえず」といった程度の理由だし、今回は今回で奥さんが見てみたいというので来たにすぎない。でも来ちゃったのである、しかも空いているのだ。せっかくだからゆっくり見てみよう、そう思い正面に立ってじっくりと眺めてみた。

それとなく気づいてはいたのだが、よくよく見るとこの「弥勒菩薩半跏思惟像」はものすごく華奢な体つきをしている。女の子のようというか、いまどきの女の子のほうがもっと骨格も肉づきもいいんじゃないか。ウェストなんてすごく細くて平べったい。しかも小首をかしげているのでいっそう頼りなげに映る。ところがである。この「弥勒菩薩」は小首をかしげつつ頬に手をあてて「どうしたらすべてのひとびとを救うことができるのか」と考えているのだという。そんな壮大なこと考えちゃって大丈夫なんだろうか?だって、そのカラダですよっ。

子供のころ、さんざん特撮ヒーローもので育った世代としては「救うもの」に対してはそれ相応のイメージがある。重要なのは、いかにも「救ってやるぞ」という気合いがバシバシ伝わってくるような迫力である。そういったパッションが、どこからどうみてもこの「弥勒菩薩」からは伝わってこないのである。いにしえのひとはどうしてもっとマッチョなキャラの「弥勒菩薩像」にしなかったのだろう?

それはたぶん、「救い」ということに対するとらえかたのちがいなのだろう。仏教の「救い」についてはまったくなにも知らないのだが、すくなくとも座礁した船から投げ出されたひとをぐぅわああーと荒れ狂う海に飛び込んで助け出すといった意味での「救い」でないことはわかるし、ボランティアとして地震の被災地におもむき疲れ切ったひとたちを元気づけようと長渕剛の「乾杯」を熱唱するといった意味での「救い」でないこともたしかだ。へこんでいるとき、無理矢理元気づけようとあれこれ頑張られるよりも、こちらの話にじっと耳を傾けてもらうだけでかえって気分も軽くなり現実に立ち向かう気力もわいてくる、といったことがある。腕力ではなく、そういう包みこむような愛による「救い」、いわゆる「慈愛」についてこの華奢な仏さまは伝えようとしているのではないだろうか。

ところで近ごろは、線の細い華奢な男子がウケるのだろうか?街を歩くカップルをみてそう思うときがある。広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像」を眺めていたらそんなことを思い出したのだ。となると、イマどきの女子は男子に腕力よりも慈愛を求めているということになるのだけれど・・・。そういえば、そんなカップルはやっぱり圧倒的に女子がしゃべりまくっていて男子はひたすら聞き役に徹している。もちろんその表情にはアルカイックスマイルをたたえて。

写真は、京都にでかけたときの「定番」になりつつある荒神口の「かもがわカフェ」。こういうお店はやはり、京都ならではと思うのだ。自家焙煎のコーヒーもおいしい。
kamogawacafe

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