
さまざまなひとびとが目の前を通り過ぎてゆく。みんな自分ではうまくやってるつもりが、じつは調子っぱずれな「残念なひとたち」ばかりだ。
オタール・イオセリアーニ監督の映画『素敵な歌と船はゆく』を観はじめて最初の二、三十分間、この映画がひどく退屈に思えてはたしてラストまで観つづけることができるかどうか、不安になった。ストーリーといえるようなストーリーはなく、いくつものエピソードを数珠つなぎにしたかのような構成。勝手に動いているだけかにみえる登場人物たちは、やがてどこかで「合流」してひとつのストーリーをなすのかと思いきやまったくそういうことはなく、ただただ互いにすれ違っているばかり。ところが、そんなひとびとが二度、三度と回を重ねて姿をあらわすたび、なぜかひとりひとりがそれぞれあたかも主役であるかのような存在の色濃さを増してゆくのだ。それはちょうど、じわじわと体内に「毒」がまわってゆくような感覚。気づけばすっかり「イオセリアーニの毒」にやられて、ニヤニヤ笑いながら映画を楽しんでいる自分がいる。
それにしてもエンディングの「ダメおやじの出帆」は笑いを通り越し、呆れるのさえも通り越して、もはや痛快ですらある(ちなみにこのダメおやじを演じているのは監督のイオセリアーニその人)。『聖書』のなかにでも登場しそうな不可思議なイメージすら漂わせている。
この退廃した世界で信用するに足るのは「酒」と「歌」のみ。もし伴侶にするなら、「酒」と「歌」を愛する者の他になし。
どこからともなく、そんなイオセリアーニの「肉声」がきこえてきそうな作品である。
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