北欧、フィンランドをこよなく愛するカフェ店主がつづる日々のあれやこれや。

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深沢七郎の『盆栽老人とその周辺』を読む。

畑仕事が好きで、東京からわざわざ埼玉県のとある村へと移住した「私」。その「私」が、土地のひとびと(=農家のひとびと)から「盆栽」をすすめられたり、売りつけられそうになったり、はたまた強引に「預けられたり」しながら、そのたび断ったり、逃げ回ったり、うっかり「預かって」しまったりするお話である。

なぜ盆栽なのか?というと、このあたりはどうやら盆栽好きのあいだではよく知られた盆栽が盛んな土地であるらしく、農家のひとびともみな盆栽を趣味にしているうえ、なかには「副業」のようにしているひともいるらしい。とはいえ、みんながみんな盆栽で儲けているということはもちろんなくて、「名人」と呼ばれひとびとの尊敬を一身に受けるカリスマ的存在もいれば、下手くそでひたすら散財ばかりしているようなひともいる。この村にはつまり「盆栽」をめぐる堅固なヒエラルキーがどっかりとあるのであって、こうしたヒエラルキーに生きる村のひとびとにとって、東京からやってきた盆栽音痴の「私」はいわば最下層民(=いいカモ)なのだった。

途中まで読み進んではたと気づいたのだが、この小説はある意味「SF」だ。

選挙運動で対立するふたつの陣営が、優柔不断な対応ではぐらかす「私」をまえにどんどんエスカレートして買収合戦のような様相を呈したり、自動車で村に迷いこんできたよその土地の人間に農家のおばさんがすまして嘘をつく現場を目撃したり、あるいはまた「他人の不幸」を表面では同情するようなそぶりをみせながら、裏では嬉々としてうわさしあっていたり、そのたび「私」は困惑し途方に暮れてしまうのだ。ここにあるのは、「村」という小惑星に不時着した「私」が体験するディスコミュニケーションの物語。

それでも「私」はそんな村人たちに対して不平や不満を言うわけでも、ましてや批判をくりひろげるわけでもなく、ただ淡々とその状況を受け入れ翻弄されているばかりである。深沢七郎は「あとがき」に書いている。

農民の持っている根強い根性は、虐げられた反動で磨かれたふてぶてしさーこれを、たくましさ、とか、凄まじさとでも言っても、もう少しちがう、商人のずる賢さともちがうー盲滅法的なふてぶてしさは見事というか、スバラシイちから強さだと思う。

私はこんな底力のある無鉄砲なエゴイズムーかくさないエゴイズム、すぐに見破られてしまうエゴイズムこそ素晴らしいではないかと思う。


おいおい、ほめちゃってるよ。

ワケがわからないまま唐突に終わってしまうこの小説だが、そのワケわからなさの中にも一分の「晴れやかさ」が感じとれるとしたら、それはたぶん「私」が、このエイリアンたちを前に潔いまでにあっけらかんと「敗北」を認めてしまっているせいかもしれない。《不時着者の作法》をここまで見事に体現できる「私」もまた、言い方はよくないけれどゴキブリなみにしたたかで、強靭な生命力をもっているようにみえる。
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