北欧、フィンランドをこよなく愛するカフェ店主がつづる日々のあれやこれや。

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きょうと明日カフェはお休み。イベントで映画上映会をおこないます。


五月に似合う音楽といえば、チェット・ベイカー、そしてシューベルト

五月が孕む不穏さについては、ずいぶん前になるけれど、その名もずばり『五月のミル』という映画について書いたときにも触れたとおり。そして不穏さはまた、シューベルトの書く音楽につねにつきまとう影のようなものでもある。

ここ最近よく聴くのは、ちいさなイ長調のソナタ。パウル・バドゥラ=スコダというピアニストが録音した1958年の演奏で。バドゥラ=スコダの、いっさいのケレンを排した演奏は一見したところ幸福な感覚にあふれたこの曲の、しかしところどころで顔をのぞかせる不安な翳りをむしろ無造作にあぶりだしてしまう。

第一楽章のバドゥラ=スコダはかなり速い。早足でスタスタと、それはいかなる感傷とも無縁のいかにも若者らしい歩みである。なんたって、この曲を書いたときのシューベルトはまだ二十二歳なのだ。こうこなくっちゃ、と思わせる。とはいえ、そのわずか九年後に三十一歳で(村上春樹の表現を借りれば)「消え入るように死んでしまった」のを知っているぼくらからすれば、そんなに生き急がなくてもいいのにとむしろ切ない気分にもなる。

わずか四分弱の第二楽章。すでにこのひとの魂はこの地上にはない。二十二歳の若者の身にいったいなにが起こったのか? その静けさとは裏腹に、ひどく聴くものを不安にさせる音楽である。

夢からはっと覚めるように、まるでもうなにも覚えていないかのようなあっけらかんとした顔で第三楽章は開始する。寄せては返す波のようになんども繰り返しあらわれる可憐なテーマはちょっとショパンにも通じるような気もするが、大輪のバラの花を思わせるショパンとはちがって、シューベルトの場合はほのかな香りのちいさな白い花をブーケにしたような感じ、表情が素朴で人懐っこいのだ。途中あらわれるワルツでのバドゥラ=スコダの脱力ぶりはもう見事としか言いようがない。こういう絶妙な間合いは、やっぱり彼がウィーンっ子だからこそ出せる味なんだろうか。

おなじ「アレグロ」でもふつうよりかなり飛ばしていた第一楽章とはちがって、最後の楽章でのバドゥラ=スコダはむしろ一貫して安全運転に徹しているような印象をあたえる。が、それがかえって危うさのようなものを感じさせるのは、すこし強い風にあおられでもしようものならすぐさま吹き飛ばされてしまいそうな頼りなさを感じさせるからじゃないだろうか。ここから引きはがされて、どこかに持っていかれそうになるのだ。

五月にシューベルトを聴きたくなるのは、この時期、新緑があまりにも無神経にその若々しさを誇っているせいなのだと思う、なんて書くとじぶんがものすごく年寄りになってしまったみたい。
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